改革派神学・長老主義・喜びの人生―ファン・ルーラーから学びうること(2007年)

 関口 康


序 生誕100周年

アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])の紹介文を書かせていただけることになった。編集部各位の御厚意に心より感謝いたします。神戸改革派神学校の紀要『改革派神学』最新号(第34号、2007年)には「地上における神のみわざとしての教会――A. A. ファン・ルーラーの教会論の核心――」というタイトルの論文を書かせていただいた。本稿と合わせてご一読いただけると幸甚である。

実を言うと、知る人ぞ知る、来年2008年は「ファン・ルーラー生誕100周年」なのである。このことを皆様にお知らせしえただけで、本稿の目標の大部分は達成したようなものである。来年の誕生日12月10日アムステルダム自由大学で記念講演会が開催されることになった。メインスピーカーはユルゲン・モルトマン博士に決まった。日本の「ファン・ルーラー研究会」[a]でも、ささやかでも何らかのイベントを開こうではないかと相談しはじめているところである(詳細が決まり次第、研究会ホームページ(http://vanruler.protestant.jp)[b]でお知らせいたします)。

モルトマンが講演者に選ばれたことに驚きはない。神学思想史を思い描く人々は、ファン・ルーラーを「バルトとモルトマンの橋渡し」の位置に置くであろう(ただしファン・ルーラー自身は、この位置づけを不服とするであろう。両者は対立していた時期がある)。1950年代後半ヴッパータール神学校の講師モルトマンとルードルフ・ボーレンに、ファン・ルーラーの甚大な影響が及んだ。爾来、「バルト後」の現代神学の新しい展開が始まったという事実があるからである。モルトマンがファン・ルーラーの国際的知名度を高めるために貢献した第一人者であることは間違いない。

また、別の話題であるが、オランダで新しいファン・ルーラー著作集の刊行が今年2007年9月より開始された。従来の『神学著作集』(Theologisch werk)全6巻は、最晩年となる1969年(死去は1970年)から70年代中盤にかけて出版され、とくに死後は妻が編集を担当した。新しい著作集は未出版論文が収録される予定である。興味津々の企画である。

このような状況の中、ファン・ルーラーへの関心が国際的に高まっている。アメリカ合衆国におけるファン・ルーラー研究の草分けであるポール・フリーズ教授は今の状況に「ファン・ルーラー・ルネサンス」と命名された。

ただ、私には、流行を追いかけるというような関心はまるでない。むしろファン・ルーラーの神学を広く紹介させていただくことによって、日本に新しい流行を作り出したいという願いがある。そのためにはまず、この神学者の文章がオランダ語から(正確で読みやすい)日本語へと翻訳される必要がある。そのように心を定め、友人の清弘剛生牧師と共に「ファン・ルーラー研究会」をインターネット上に結成し翻訳活動を開始したのは1999年2月のことであった。蘭学事始さながらであった(いまだに〝事始〟であることに変わりはない)。メーリングリストの登録者は現在100名を越える。顧問は牧田吉和先生(神戸改革派神学校前校長)である。

そろそろ本論に入ろう。ファン・ルーラーはどんな人物か。われわれは何を学ぶべきなのか。次の三つの論点を設定したいと思う。すなわち、改革派神学、長老主義、喜びの人生である。

Ⅰ 改革派神学

ファン・ルーラーとは何者か。この問いへの答えとして最もふさわしいと私が確信しているのは、「ファン・ルーラーは本質的に改革派教会の教師である」ということである。

「改革派教会の教師」を「福音の伝道者」と言い換えてもよいし、あるいは「教会の牧師」としてもよい。実際にそうであった。彼の生涯は、福音の伝道のために神と教会に献げられた。この本質は生涯変わることがなかったのである。

そのため、改革派教会の教師であるファン・ルーラーの神学の特質もまた、「それは教会の学以外の何ものでもない」と表現しうる。ファン・ルーラーの神学は〝改革派教会の神学〟という意味での「改革派神学」なのである。

ただし、ここで一言断り書きを加えておこう。ファン・ルーラーにとっての改革派教会と改革派神学は全キリスト教会の中の小さなグループとそこで奉じられる特殊な思想というような、要するに全体から隔離された部分の位置づけに甘んじようとするものでない(ただし、「小さなグループ」という点については、オランダ改革派教会自体は巨大な教団なので、日本の改革派教会に対して抱かれる一般的イメージとは一致しないであろう)。

ファン・ルーラーにとっての「改革派教会」とは「宗教改革の滝を通り抜けてきた公同教会」、すなわち「改革された公同教会」(ecclesia catholica reformata)」である。それは、われわれのイメージする〝プロテスタント教会〟という(あまりにも広すぎる)概念と、ほとんど一致するであろう。

そして「改革派神学」も同様である。それは「改革された公同神学」(theologia catholica reformata)である。ファン・ルーラーは「公同的なもののすべては改革派的であり、改革派的なもののすべては公同的である」と書いている。なぜなら改革派教会の神学は「キリスト教思想のすべての伝統を継承している」からであり、そしてそれゆえにこそ、改革派神学は「普遍的キリスト教の思想的伝統に立つべきである」というのがファン・ルーラーの確信であった。

そしてこの確信は、まさにそのまま、改革派神学の陥りやすい「分派主義」の罠への警告でもあった。次のように書いている。

「改革派神学が自分の砦に立てこもり、特殊な関心としての一対の問いと答え〔信仰問答のこと〕に自己限定し、自分自身をキリスト教の一形態として理解してしまうや否や、『最良の堕落は最悪である』(corruptio optimi pessima)と言わなくてはならなくなる。そのとき改革派神学は分派主義的な何ものかを獲得しているのである。むろん改革派神学の存在には――そのラディカリズムと徹底性に――分派主義を生み出すあらゆる胚芽がすでにある。だが分派主義は改革派神学の本来の意図に反するのである。ただし、『改革派神学は分派主義ではない』という命題は、きちんと証明されるべきである。そうなのだと強弁するだけで事足れりとしてはならないのである」。

ファン・ルーラーの生涯は、神と教会に献げられた。そのことを彼の伝記が如実に物語る。

1908年12月10日、アペルドールンのパン配達職人である父の長男として生まれた。牧師や大学教授の子弟ではない。裕福な家庭でもなかった。両親の経済力は頭脳明晰な長男の初等教育修了を助けるので精一杯だったという。しかし少年は「牧師になりたい」という大志を抱いていた。いったんは職業学校に入学する。ところが一年半後にギムナジウムに転校する。ギムナジウムに行かなければ大学に進学できなかった時代である。転校の理由は、どうしても牧師になりたかったというこの一点に尽きる。ギムナジウム卒業後、フローニンゲン大学神学部に入学する。

神学部にはファン・ルーラーが幼少のころに通っていたアペルドールンの改革派教会の牧師であったテオドール・ハイチェマ教授がいた。ファン・ルーラーは、ハイチェマ牧師のもとで信仰告白式の準備を行い、ハイデルベルク信仰問答を学んだ。ハイチェマの名前は、熊野義孝先生の『終末論と歴史哲学』(1933年)にも出てくる。この人は、オランダ改革派教会史上初めてカール・バルト(とくに『ローマ書』のバルト)の神学思想を肯定的に受容した神学者である。ファン・ルーラーの入学はハイチェマが教授になりたての頃である。牧師を志す少年が入学先としてフローニンゲン大学を選んだことと、ハイチェマが教授として働き始めていたことは、決して無関係ではない。

神学生の頃からとにかく秀才だった。フローニンゲン大学でエーミル・ブルンナーの講演会が開かれたが、ファン・ルーラーがこのスイス人講師を質問攻めにしたため、急遽翌日に新たな講演会の場が設けられたというエピソードが残っている。大学卒業後、ファン・ルーラーはオランダ改革派教会の牧師になる。牧師任職式のときに自ら行なった説教が著名な雑誌に掲載されるなど、才覚を如何なく発揮した。

牧師として仕えたのは、クバート教会とヒルファーサム教会の2個所である。クバート教会は、彼自身が「田舎伝道」を志して赴任した。ヒルファーサムは、今でもそうであるが、当時から大きなラジオ局を有する放送文化の発信地であった。ファン・ルーラーがヒルファーサムにいたのは1940年から46年まで、つまり第二次大戦の前後である。ナチス・ドイツ軍がオランダを蹂躙していた時期と言ってもよい。ヒルファーサムは疎開地だった。戦火を逃れてきた人々を慰め労わる仕事に従事した。

そして、戦後の復興期にはヒルファーサムのラジオ局が制作する礼拝番組に月2回のペースで出演し、そこで約10分間の説教を行うようになる。リスナーは平均1245万人[c]もいたという。番組終了後はすべての説教が『黙想集』(meditatie)と銘打たれて出版された。内容はとにかく面白い。聖書の御言葉に徹底的に密着しつつ教義学的・実践的に深い思索を味わうことができる。一度読むとやみつきになる。この礼拝番組と『黙想集』が、ファン・ルーラーを国民的な有名人にしたのである。

牧師の仕事をしながら執筆に取り組んだ神学博士号請求論文『律法の成就――啓示と存在の関係についての教義学的研究――』が一九四六年に完成した(出版は1947年)。フローニンゲン大学神学部から下された評価は「最優秀賞」(クム・ラウデ)であった。牧師の仕事と論文執筆を両立させる困難さは、実際にチャレンジしたことがある人には分かるはずである。

1947年からは、ユトレヒト大学神学部で教鞭をとることになった。ファン・ルーラーの職名は「ユトレヒト大学神学部オランダ改革派教会担当教授」であった。このポストは、国営ではないが・政府公認のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)の大会(ジェネラル・シノッド)の委嘱によってオランダの国立大学(ユトレヒト、ライデン、フローニンゲンなど)の神学部に設けられたものである。しかし、この役職は光栄なものというばかりではなかった。伝記記者A. ド・フロートによると、「ユトレヒト大学の神学部は、教会の委嘱をただ了承しただけだった。神学部の全員が若い教授を完全に無視するという制裁を加え、教会の委嘱に対する否定的態度を示した」という。早い話、ファン・ルーラーは、オトナの世界のいじめに遭ったのだ(しかし、その後の展開において、ファン・ルーラーと神学部の同僚たちは次第に心の通う関係を築いていったという)。

もう一つ、若き日のファン・ルーラーが熱心に取り組んでいた仕事がある。それはオランダの公党である「プロテスタント同盟」の幹部の仕事であった。1946年の下院議員選挙の際に党綱領の草案を書いたり政治講演を行ったりした。ただし、選挙の結果は惨敗、国会に議員を送りこむことはできなかった。

この「政治参加」(アンガージュマン)の要素は、とりわけオランダ改革派教会の伝統であると言ってよいだろう。それはフルーン・ファン・プリンステラーやアブラハム・カイパーらの神学のうちに、すでに十分に見られる要素である。ファン・ルーラーにも強度の政治志向性がある。彼の神学は「事実上の政治神学」であるという見方もあるほどである。

しかし、以上の事実にもかかわらず、ファン・ルーラーは、本質的に「改革派教会の教師」であり、「福音の伝道者」であり、「教会の牧師」であった。少なくとも「教会人」であり、かつ「教会役員」であり続けた。地上の教会の現実からかけ離れているような神学思想を展開したことはない。そのことは、この神学者の書物を読めばすぐに分かることである。

ファン・ルーラー自身の専門分野は組織神学(教義学)であったが、神学部で実際に教鞭をとったのは、聖書神学、オランダ教会史、内国ならびに外国宣教学(アポストラート)、信条と典礼、キリスト教倫理学、教会規程であった。 

このことから分かることは、ごく単純に言えば、ファン・ルーラーは組織神学と聖書神学の両面に強かったということである。良く言えば専門分化が進んでいる・悪く言えば異分野間の連絡関係が途絶えている、今日の日本の神学部や神学校では、組織神学者が聖書神学の講義を行う情景は想像しにくいかもしれない。しかし、聖書への密着と教義学的・実践的思索は対立しあうものではなく、一致し、融合しあうものであるということを、ファン・ルーラーの神学が証明していると言えるであろう。

(当時の)オランダでは、たとえ組織神学であっても聖書神学的裏づけが貧弱であるような研究は高い評価を得られなかったと言われる。たとえば、ファン・ルーラーの博士論文(律法の教義学的研究)を見ると、本文530頁強のうち約200頁が徹底的な聖書釈義によって埋め尽くされている。半分は聖書神学に関する博士論文である、と言ってもよいほどなのである。

Ⅱ 長老主義

ところで、ファン・ルーラーが、1942年から51年までのわずか10年間とはいえ多くの時間と文字通りの心血を注いだ仕事があった。それは、オランダ改革派教会の『教会規程』(Kerkorde)の改定という大事業である。

これはもちろん、私的な仕事ではありえない。大会(ジェネラル・シノッド)の委嘱に基づく専門委員会の仕事である。ファン・ルーラーは他の委員会にも選ばれていたが、最も重要かつ最も過酷だったのが、この仕事であった。ヒルファーサム教会の牧師であった頃から始まり、大学の教授になってからも続いた。教会の伝道や牧会、ラジオ説教、多くの書物や論文の執筆、政治参加、さらに子育てや日常的労苦の傍らで、委員会活動が続けられた。この委員会の働きの中で命の多くの部分が削り取られたと言っても決して過言ではない。委員会には味方だけではなく、論敵が大勢いたからである。

オランダ改革派教会の『教会規程』は、16世紀に萌芽を持ち、17世紀のドルト教会会議以来の約4世紀の伝統を有する。しかしまた、長い歴史の中で書き換えられ、改変されてきた。ファン・ルーラーの委員会に課せられた仕事の主眼点は、19世紀のナポレオン時代(!)に改変された古い教会規程を全面改定することであった。すなわち、19世紀にオランダ政府の「国家宗教局」の監督下へと移管された改革派教会を〝民営化″することであり、改革派教会本来の「長老主義教会政治」(小会・中会・大会)を回復することによってイエス・キリストの体なる教会の自治権を信者自身の手に取り戻すことであった。

なかでも、ファン・ルーラーが求めたことは、教会会議が「戒規」を行うことができるようにすることであった。彼自身が対決した相手は、左の異端だけではなく、右にもいた。最期の日まで対立が続いていたのは「ウルトラ改革派」(Ultra-gereformeerden)との関係であった。さらに、オランダ改革派教会内の旧来の会派間対立を緩和し、教団内に融和をもたらすこと。そのためにこそ、「宣教」(アポストラート)という視点のもとで神学的教会論を展開することであった。ファン・ルーラーは教団内政治だけではなくオランダ国内の利害関係や政治的思惑が複雑に絡み合う、最大級の難問に取り組んだのである。

これらの問題をめぐって、委員会はさまざまな意見を交換し、また絶えず激突した。しかしその中でファン・ルーラーは、辛抱強く論じ、丁寧かつ徹底的に基礎づけた。そして、ついに新しい『教会規程』を1951年に施行することができた。これこそが、この神学者の仕事の足跡における最も顕著な側面となったのである。

これらの事実に基づいて申し上げたいことがある。それは、現代の改革派教会の中で「長老主義」を最も重んじた人々の列にファン・ルーラーをぜひとも加えていただきたいということである。「長老主義とは何か」という重大な問いについて長年議論してこられた『季刊 教会』の読者の皆様にとってこのあたりの消息は興味深く感じていただける点ではないだろうか。

また、もう少し加えて言わせていただけば、ファン・ルーラーがオランダ改革派教会に本来の長老主義を回復するために命を献げたのは、教会制度の整備や戒規の執行という側面だけではなく、いわばそれ以上のこととして「健全な神学」の回復という側面をこそ重要視した結果であるという点が決して見逃されてはならないのである。次のように書いている。

「長老主義教会政治は学者の神学(vakmatige theologie)が教会政治を支配してしまうこと、それゆえにまたそういうものが教会の生を支配してしまうことを阻止する。御言葉の奉仕者の神学(theologie van de dienaren van het Woord)は、長老と執事の霊的人間性によってバランスを保ち、節度を守る。神学的考察と信仰的実践。この二つの要素のバランスこそが聖霊のみわざの特徴なのである」。

これは、そこに「長老主義」が実現していればその中で営まれる神学のすべては必ず自動的に健全でありうる、というような意味ではない。しかし、逆は真理ではないだろうか。「長老主義」による規制を受けていないような神学は、早晩、教会的性格を喪失し、「学者の神学」に座を譲らざるをえなくなる。教会の礼拝に通わない説教学者、現実の牧会経験のない牧会学者、教会役員(教師・長老・執事)ではない教義学者や聖書学者、教会の信仰に自らコミットするつもりがまるでないようなキリスト教史研究者、等々。そのような人々に〝神学〟を語る権利を譲ることになる。今すでにその状況は進んでいるのではないだろうか。

日本の中で改革派・長老派の流れをくむ教会の中には、今まさに「長老主義」の〝回復〟のために尽力しておられる方々が少なからずいることを、私はもちろん知っている。われわれの確信は、長老主義を回復することこそが、健全な神学を回復する基盤と勇気を生み出し、かつ「教会における」われわれの信仰の健全化と活性化を生み出すのだ、ということである。
ファン・ルーラーの苦闘の足跡から学びうることは、少なくないであろう。

Ⅲ 喜びの人生

お許しいただいた紙面はあとちょっと残っている。最後に、ファン・ルーラーの神学の魅力として語られることの多い「喜びの神学」の面に触れておこう。

ファン・ルーラーの神学は、平たく言えば、「地上の人生を喜び楽しむ神学」である。神学論文の中でも、説教や黙想の中でも、繰り返し「喜び」(freugde)をテーマにして語っている。ある黙想では「喜びとは愛以上である」とまで語っている(ただし続きには、「愛以上の喜び」とは「永遠の命の最高形態」ではあるが、われわれはまだ永遠の命に至っていないので、地上にいる間は「愛に生きること」のほうが重要である、と語っている)。

以下、ご参考までに、ファン・ルーラーの黙想の文章をご紹介しよう。そのほうが私の拙い解説を続けるよりもはるかによい。ご紹介するのは「神の賜物としての喜び」と題する詩編21編7節の黙想の一部分である。死後出版された黙想集『詩編を物語る』(Over de psalmen gesproken 1973年)にある。ファン・ルーラーの遺言として読むことができよう。

「おそらくわたしたちは、かつて子どもの頃に聴いた本当の喜びの印象を覚えています。いつまでも子どものままでいられるなら本当に喜んでいることができるのにと思うでしょう。成長し、年齢を重ねるうちに、生きる喜びの輝きが剥がれ落ちていきます。生真面目(ernst)が姿を現わします。あるいは努力、そして失望。わたしたちは次第に悲観的になり、陰気になり、憂鬱になっていくおそれがあります。わたしたちは、最期まで歌ったり笑ったりできるでしょうか。本当に心全体で歌ったり笑ったりできるでしょうか。疑惑の澱があり、心の奥に絶望がないでしょうか。

この点で聖書はわたしたちを無邪気にしてくれます。聖書はわたしたちが最期の息を引き取る日まで、わたしたちを長く喜ばせるために、命をもたらしてくれるのです。喜ぶこと、それこそが〝人生の目的〟(bestimming van de mens)です。事実、喜びとはその中で魂が命を得る唯一の要素でもあります。これ以上喜ぶべき何もない。そのときは、すでに死に至っているのです。

ひとが喜ぶことについて、聖書に基づいて付け加えるべきことは、驚くほどたくさんあるわけではありません。すべての中心にあるのは、神が神として存在しておられることであり、そのように神が存在しておられることに対してわたしたちが抱く喜びです。ところが、わたしたちは、神の存在とみわざのすべてを純粋かつ絶対的に喜ぶことなどは不可能ですし、そんなふうにしなくてもよいのです。むしろ重要なことは、わたしたち自身が存在しているというこの事実を喜ぶことです。そこには何かがあるのであって、虚無ではないということが重要です。人間が人間であること、これこそが重要なのです。

しかし、ここで第二に注目すべき事柄が現れてきます。それは、聖書において喜びとは、単なる人間的なリアクションに過ぎないものであると見られたりそのように評価されたりするようなものではなく、むしろ、それは神の賜物なのだということが明確に規定されているものであるということです。わたしたちの神は、地上において、時間の中でみわざをなす方として御自身を啓示され、その認識を与えてくださる生ける神です。神は、臨在と関与を通して、人の子らの心の中に喜びを与えてくださるのです。そして聖書はそこにこそ神の御心があるのだとはっきりと記しています。神はわたしたちに喜びを与えてくださるために御自身を啓示されるのであり、また、そのためにみわざを行われるのです!神がご自身を啓示されるとき、わたしたちは新しい喜び、完全な喜びへと至るでしょう。陰気であること、憂鬱であることは、主なる神の目的ではないし、神のみわざの結果でもないのです。

すべての悲しみは、それ自体が罪であるという意味で、あるいは、それは罪の結果であるという意味で、罪へと結び付けられるものです。主なる神は、人を悲しみの中に置こうとされるそのような要求も意図も持っておられません。神は御自身の本質に従っておられる方でもあられますので、神御自身は悲しげな方でも陰気な方でもありません。生真面目の中には神の本質も意図もないとさえ語ることができます。あるいは、少なくとも最も深いところにはないのです。

悪魔は、神御自身よりもよほど生真面目です。悪魔こそが糞真面目(bitter ernstig)なのです。神のご存在とご意志の最高度の固有性は、喜びの中にあるのです」(関口康訳)。

附記

最後の最後に、もしかしたら皆様が最も興味を持っておられるかもしれないホットな(?)話題にも触れておく。この神学者は「ファン・ルーラー」なのか、「ファン・リューラー」なのかという問題である。

当然両者に言い分がある。無理に統一する必要はないかもしれないが混乱の元は放置しないほうがよい。人名表記には愛着の要素も強い。「シュライアマッハー」や「トゥルンアイゼン」は定着したようにも見えるが、「ボンヘファー」はどうだろうか。「日本ボンヘッファー研究会」の存在が行く手を阻むのではないだろうか。

耳に聞こえてくる音そのままを表記すること。この基準には人それぞれの面があるので難しいが、結局それしかない。それが私の結論である。

時に2006年11月17日、当時来日中のヘリット・イミンク教授(オランダプロテスタント神学大学初代総長)と二人でJR新神戸駅から品川駅まで新幹線の旅を楽しむ機会を得た。約3時間、世界最高の実践神学者を独占して、一つの相談事を聴いていただくことができた。

そのときイミンク教授の口から何度も聞いた音が「ファン・ルーラー」であった。流線型の「りゅう」のような拗音ではない。最初の「る」は唇を丸めて前に突き出し、上顎に当てた舌先をルルルと高速に振動させて発音する。口先をすぼめて巻き舌のべらんめえ調で「るるらあ」と早口で言うと似ているかもしれない。最大限譲歩して「ルューラー」である。

しかしファン・ルーラー研究会は「ファン・リューラー」の書物を尊重してきた事実もある。対立軸を作り出したいわけではない。「ファン・ルーラー研究会編訳ファン・リューラー論文集」を出版させていただける日が来ないものかと、祈り願ってもきたのである。

(小論、季刊『教会』第69号、日本基督教団改革長老教会協議会、2007年、22-28頁)

編注(関口康)

[a] 「ファン・ルーラー研究会」は、2014年10月27日に解散した。

[b] ホームページは「ファン・ルーラー研究会」の解散をもって廃止した。

[c] この数字は訂正する必要がある。再調査中。