書評『伝道と文化の神学』(教文館、2003年)(2003年/2004年)

関口 康

教文館からファン・リューラーの訳書の二冊目が出版された。待望の神学論文集である。長山道訳『伝道と文化の神学』(2003年)には、「伝道の神学」(1954年)と「世界におけるキリストの形態獲得」(1956年)が収録されている。いずれも、原著者自身がドイツ語で著したものからの邦訳である。前者にはオランダ語版があるが、後者のそれは存在しない。従って、本訳書は「重訳」ではない。

二つの論文を短い文章で紹介することは難しい。第一論文だけで許していただきたい。

表題を「伝道の神学」と訳すことには無理がある。アポストラートはクレーマーの用語である(58頁)。13頁の一文をオランダ語版から訳せば、「オランダ改革派教会の教会規程には明白なアポストラート的特徴がある。H. クレーマーの偉大な働きが承認されたのである」となる。

ファン・リューラーは1942年のオランダ改革派教会大会で「教会規程の原理に関する委員」に選任され、1951年の施行までの九年余、教会規程の改訂作業に取り組んだ。H. オーステンブリンク・エヴァースによると、その委員会での議論の一つが、クレーマーのアポストラート概念をどう理解するかであった。ファン・リューラーは、個人的回心を中心に置くクレーマー的アポストラート論に難色を示し、むしろ、ひとを特定の政治的生活様式に至らしめ、文化の形態を造りかえていくこと(再キリスト教化)へと強調点をシフトさせたアポストラート論の線で、委員会を説得した。ファン・リューラーは、牧師・大学教授としての経歴に加えて、キリスト教政党「プロテスタント同盟」の幹部としても働いた人であり、より直接的な政界参加を志向するアポストラート理解を持っていた。これに最も近い日本語は「伝道」よりも「宣教」であると思われる。

ファン・リューラーは、「宣教」(アポストラート)を、終末論・予定論・聖霊論・教会論・人間論という五つの視点から理解するよう試みる。

第一の終末論的視点における強調点は、「イエス・キリストご自身、受肉、十字架、復活と昇天は、世界に関わる神の御国活動におけるいくつかの時点に過ぎない」(16頁)にある。キリストのすべての出来事は、終末へと向かう途上の単なる通過点にすぎない。終末においてキリストは、母マリアから摂取した「肉」を脱ぎ捨てる。キリストの受肉はアダムの堕落へのリアクションであり、当座の応急手当にすぎない。これが「メサイアの間奏曲」と呼ばれる彼独特の主張であり、批判者はもっぱらこの点を問題にする。しかしこの主張は、「伝道はイエス・キリストとその教会を見ているだけでなく……神ご自身とその世界を見ている」(17頁)という認識を導き出す。もしわれわれ教会人が宣教においてキリストと教会に関心を抱くだけならば、教会の存在とわざが自己目的化している証左であろう。ファン・リューラーは「教会への引きこもり」を警戒する。われわれは、宣教においてこそ教会の外なる世界を凝視し、歴史を導く神のみわざに関心を持たねばなるまい。

第二の予定論的視点における強調点は、「神ご自身が働いている。神ご自身が最終決定をなさる」(21頁)という視点からすべての宣教活動を捉えることの大切さにある。宣教とは生ける神とこの世の人々とのふれあい(aanraking)である。また、宣教において教会は、予定論的に言うなら、世の中で役立つ「道具」として、神に用いられる。「教会は神の御旨にもっぱら仕えなければならない」(24頁)。

第三の聖霊論的視点における強調点は、「聖書が、神の言葉が、神ご自身が存在するだけではない。人間も存在する。人間は、人間の自由と独立において、聖霊論的に尊重される」(28頁)ことにある。従来、上記第二の予定論的視点が「しばしば神学者たちを誘って、強調を、一面的に神に置くようにさせる」(26頁)危険性をはらんできたことをファン・リューラーは知っている。「神がすべてであり、人間は無である」と語ることがカルヴァン主義の立場であるかのように思い込んできた人々を知っている。しかし、聖霊論が正当に機能しているかぎり、神学がその種の過ちに陥る心配はない。「聖霊はわれわれの内に良心を、すなわちcon-scientia、つまり神と共に知り神と共に判断することを、創造し、あるいは呼び起こす」(27頁)。聖霊論的に言えば、ローマ・カトリック的神人協力主義に至るのでもなく、われわれ人間は神のパートナーである、と語ることができるのである。

これらの視点に基づく「宣教」理解によって導き出される一つの重要な帰結は、とくに異教徒に相対する際の「謙遜」の必要性を訴える具体的提言に表れている(38頁など)。終末論と予定論がキリストと教会の役割を限定し、聖霊論が人間尊重の論理を形成する。そこに「キリスト教的謙遜」の根拠が生まれる。彼の神学の真骨頂が、ここにある。

再び翻訳の問題に触れておく。39頁10行目「キリスト論的には混合物について語ることはできない」の後、オランダ語版とJ. ボルト訳の英語版にはある(オランダ語版で数えて)10数行にも及ぶ重要な文章が、日本語版には見当たらない。確認を求めたい。

訳者あとがきの「ファン・リューラーはリンデボームからトレルチを学んだ」(というR. W. レイツェマの説)は根拠薄弱である。卒業論文『ヘーゲル、キルケゴール、トレルチの歴史哲学』の指導教授W・アールダースからトレルチを学んだと見るほうが理にかなっている。「オランダ改革派教会は・・・二つの派に分けられる」とあるが、少なくとも「四つ」はあり、もっとある。「ファン・リューラーが属しているのは後者の保守的な派」とあるが、通常は前者のほうが「保守的」と言われる。「『伝道の神学』の原著は」以下の文章も不正確である。1978年版は再録であり、オランダ語版原著はドイツ語版原著の翌年には出版されている。

(『形成』日本基督教団滝野川教会、第395・396号、2003年12月1日発行、14~15頁)