A. A. ファン・ルーラーの三位一体論的神学と参加思想(1998年)

関口 康

はじめに

あるとき、オランダの改革派神学者A. A. ファン・ルーラーは、自分の神学は「20世紀」ではなく「21世紀」において認められるであろうと評した[1]。それは20世紀中には理解者は現われないであろうという嘆息まじりの言葉だったようである。しかし我々は、20世紀のさまざまな神学がそれを解決できていないとファン・ルーラー自身が考え、我々自身も感じとっている諸問題の解決策をもし彼が見出していたのだとしたら、彼の神学をあまり簡単に片づけて通り過ごすべきではないように思う。

幸い1997年ユトレヒト大学図書館は『ファン・ルーラー文庫総目録』[2]を発行し、この神学者の全著作と彼について書かれた研究書の全リストを年代順に並べ、通し番号と索引付きで一覧できるようにした。巻頭にアールト・ド・フロートによる「ファン・ルーラー教授略伝」が掲載され、彼の生涯に関する詳細な情報を提供している。私はこの『総目録』を一瞥して、ファン・ルーラーの生き方と思想、また彼が遺した著作の総量と考察領域の幅広さを知るに至り、ひたすら圧倒されるばかりであった。

本論文の作成に際し、ファン・ルーラーが書いたいくつかの論文に(オランダ語原文に辞書と首っ引きで)目を通すことが許された。さらに彼の神学を取り扱った三つの博士論文[3]といくつかの雑誌論文を入手し、目を通し始めている。現時点において私に語りうることは、ファン・ルーラーの神学は、全く徹底的に「改革主義的神学」(De reformatorische theologie)[4]という枠組みの中で営まれているものであると同時に全く徹底的に「21世紀の神学」(De theologie van de 21ste eeuw)と呼ばれるにふさわしい新しい洞察を持っているということである。

本論にむかうにあたり、我々と同じ志を持ってファン・ルーラーを学ぶ人々が日本の中に多く起こされることを期待し、神に祈り願うものである。

Ⅰ 三位一体論的神学と参加思想

「ファン・ルーラーの三位一体論的神学と参加思想」(英訳するとしたら、A. A. van Ruler’s Trinitarian theology and its engaged thinkingとなるであろう)というこの論文の題名は、彼の神学に見られる「改革主義的神学」と「21世紀の神学」という二つの要素の調和的な統合を別の表現で言い換えたものである。ファン・ルーラーが描く「改革主義的神学」は、少なくとも私にとってそれは、聖書と古代教会の基本信条に深く根差し、16世紀宗教改革ならびに17世紀改革派正統主義において十分な展開を与えられ[5]、今日の教会と世界に至るまで歴史的に受け継がれたものとしてのきわめて古典的な性格を持つ「三位一体論的神学」であると同時に、今日と将来における教会と社会の諸問題に適切な道筋と光を与え、かつ教会人であり社会人である今日の我々の生活と実践にとって具体的かつ現実的な示唆を与えてくれる「参加的(アンガージュマン)思考」を持つ神学であると信じることができるからである。

私が本論文において主張したいことであり、しかしなお誤解を避けたいと考える点は、「ファン・ルーラーの神学」だけが「参加的」であるということではない。そうではなく、「改革主義的神学」そのものが「参加的」なものであり、その「参加的」性格を典型的にファン・ルーラーの中に認めることができるという点に他ならない。別の言い方をすれば、ファン・ルーラーに見られる「改革主義的神学」は、小集団の中で密やかに語り合われるような狭義の「教派神学」ではなく、広く現代人に語りかける神学である。しかもそれは二千年のキリスト教史における過去の遺産を十分に受け継ぐものでありつつ、懐古趣味的で自己完結的な営みに引きこもることなく、未来志向的かつ普遍的な方向性を持ち続けるものであると私は考える。

この見方を私に教えてくれたのはJ. J. レベルである。レベルは、ファン・ルーラーの思考方法を、以下の6点に要約する[6]。

a. ファン・ルーラーにおいて我々は、一人の特別に「参加的」(geengageerd)な神学者に出会う。彼は、さまざまな領域における現代的思考と生活感覚の中に最高度の感受性において深く入り込み、かつ一緒に考え、変革を与えた神学者である。

b. さらに彼は、啓示と存在との関係についての問題全体に対して、改革派的であると同時に普遍的キリスト教的な解決を与えようと試みる。彼は絶え間なく改革主義的伝統の根源的出発点を堅持する。しかし同時にこの伝統はそれの一貫した帰結まで押し進められ、公同的キリスト教的神学の水準までもたらそうとするのである。

c. それによってファン・ルーラーは、絶対的に孤立した信条的な改革派神学としての自分自身に巻き込まれない。しかし同時に彼は、最新の流行に「参加」することによってだけ聞き取られた神学に巻き込まれているだけでもない。

d. ファン・ルーラーは、その改革派的であり同時に公同的キリスト教的であるところの神学から生じる断固として「参加的」である神学的思考において、瞬間的には自分の立場をいくらか急進化させる必要も出てくるのであり、自分自身が絶えずさまざまな戦線に対抗するところに置かれていると見た。それによって、彼の発言が一見したところ矛盾しかつ混乱しているという印象を与え、彼の神学に入りにくくしてきた。

e. 第一の矛盾に見えることにおいては、前の発言と後の発言との割合は、全く公然と語られたものである。それはときに、改革派神学から普遍的キリスト教神学へと前進していく拡張部分におけるファン・ルーラーの思考の成長から生じたものである。ファン・ルーラーの神学の三位一体論的構造を思い起こし、それによって彼が人間論をキリスト論的見方とは違った仕方で聖霊論的に見るというあのあり方を考えてみたらよい。第二の混乱に見えることについては、(ファン・ホーフがそのように構造化したが、ファン・ルーラー自身は差し出していない)発展段階理論、すなわちファン・ルーラーの思考における神学的展開の中に三つの発展段階を区別できるとする理論がある。ファン・ルーラーの神学には多くの点で連続と不連続があるであろう。第三に、いずれにせよ何度も繰り返し異なる立場から現代の神学的発展のさまざまな像に対抗するために、b.ですでに述べた出発点と視野の下にとどまることが必要に見えるのである。

f. ファン・ルーラーの神学的思考はクモとクモの巣にたとえられる。クモはクモの巣の中心から周辺へと何度も行き、そこで彼が見つけたものと激しく戦いながら結びつけ、同時に自分の巣をもっと拡大し、また巣の中心へと何度も繰り返し戻ってくる。中心から見ると、拡大されたクモの巣が一体的なものであることは明らかである。

この要約の中でレベルが強調していることは、ファン・ルーラーは「参加的」神学者であったということである。「参加的」とはおそらく「逃避的」または「対立的」の反対概念であり、とりわけ「世」(wereld)との関係において、牧師であり神学者である彼の思想と生きる姿勢を形容する表現であると思われる。

次にレベルは、従来ファン・ルーラーについて下されてきたさまざまな評価を比較検討した上で、その中で行われてきたファン・ルーラー神学の類型化(typering)の試みには次のようなものがあったことを紹介する[7]。

「神政主義的神学」(theocratische theologie)

「終末からの思考」(denken vanuit het einde)

「創造の神学」(scheppingstheologie)

「喜びの神学」(theologie van de vreugde)

「打ち砕かれた高慢の神学」(theologie van de gebroken hoogmoed)

「聖霊論的神学」(pnematologische theologie)

レベルは、従来の類型化の試みのいずれにも満足しない。しかしそれぞれの長所を生かしながら、新しい類型化として「終末論的‐三位一体論的神の国の神学」(eschatologisch- trinitatische rijkstheologie)という定式を明らかにする。「これは同時にファン・ルーラーの神学を、終末論的‐三位一体論的神の国の神学として、より正しくより完全に類型化するという我々の見方へと導くのであり、その中で上に述べた諸要素がそれらの固有な仕方で我々の見方に従属し、また我々の見方を通ってふさわしい場所を持つのである」[8]。

この論者が自分の見方を支えるために引き合いに出しているのは、ファン・ルーラーの1956年の論文「三位一体論的神学の必要性」[9]である。

その中に現れる最も重要な思考は、ファン・ルーラーが「二重の運動によって特徴づけられた純粋に三位一体論的な思考様式」と名づけているものであり、その思考に特徴的なことは、第一に「異なる神学的視点を互いに関係づける(op-elkaar-betrekken、引き寄せ合う)運動」、第二に「それらの視点を互いに区別する(uit-elkaar-houden、引き離し合う)運動」である[10]。その二重運動は、内在的三位一体論の中にも、経綸的三位一体論の中にもある。内在的三位一体論においては、御父からという視点、御子からという視点、御霊からという視点はそれぞれ関係づけられながら区別されている。また、経綸的三位一体論においては、創造からという視点、贖いからという視点、終末的完成からという視点はそれぞれ区別されながら関係づけられているのである。

レベルは、ファン・ルーラーのこの論文を「意識的に」詳細に検討した理由について、次の五点を挙げている[11]。

第一に、他の著作の至るところに分散しているいろんな種類の典型的にファン・ルーラー主義的な概念をこの論文の中に再び見出すことができ、それらが一つの三位一体論的神学的関連の中に凝縮して置かれている。

第二に、我々が見るところでは、ファン・ルーラーの出版物において、彼の神学の三位一体論的性格がこれほどまでに明白に神学全体を決定づけ、基礎づけるものとして前面に出てくるものは他にはない。ファン・ルーラーの三位一体論に彼の神学の核心部分があり、彼の神学を理解する手がかりがある。

第三に、とくにこの論文においてファン・ルーラーの神学的思考の「外見上」矛盾しているように見える性質は、次のように説明できるようになる。すなわちまさに三位一体論的思考というものは二重の思考運動、つまり区別された神学的視点を相互に引き寄せ合うだけではなく、とくに相互に引き離し合うというこの二重の思考運動を必要とする。

第四に、それゆえ、この三位一体論的に展開された神学において与えられる二重の思考運動からのみ、たとえば彼が人間論においてキリスト論的見方とは違った仕方で聖霊論的に再び語ることを理解することができる。さらに自然神学、人間の自立性、世的なものと物質的なものへの高い評価、この世界と自分自身を享受すること(fruitio mundi et sui)、他の諸科学への高い評価その他、彼が語るすべてのことは、この三位一体論的思考様式へと関係づけられなければならない。

第五に、とりわけファン・ルーラーにおける聖霊と人間との関係という我々の研究にとって、このファン・ルーラーの講義において与えられた二重の思考運動があるという見方は、三位一体のみわざ(opera trinitatis)を考えるために非常に重要であるということを我々は見ておかなければならないのである、とレベルは述べている。

Ⅱ 政治参加の問題

ファン・ルーラーの「参加思想」は、抽象的なものではなく、きわめて具体的で現実的な行為を生み出すものであった。そのあり方は我々改革派教会に連なる者たちが信じる「カルヴァン主義の有神論的人生観・世界観」の枠組みの中でとらえられるものである。

ただし、ファン・ルーラーの「参加」のあり方は、例えばアブラハム・カイパー(1837~1920年)のそれに近い側面と遠い側面とがあると言わなければならない。それどころか、カイパーの立場を批判的に克服するという営みは、まさにファン・ルーラー本人が自らの立場を確立していく道のりの中で自覚的になされた取り組みであった。このことは、我々がファン・ルーラーの神学を正しく理解していくために彼とカイパーとの比較研究ということをどうしても回避することができないことの理由である。

ここではまず、カイパーとファン・ルーラーとの間にある「参加」のあり方をめぐって、最も分かりやすい、目に見えて顕著な差異について見ていきたい。それは、この二人の神学者の「政治参加」のあり方の差異である。

まずカイパーのほうから見ていく。彼は国教会系オランダ改革派教会(NHK)の牧師の息子であり、ライデン大学卒業後自ら牧師となったが、NHKの指導部と対立し、1892年教師を免職された。それを契機に彼はNHKを離脱して、総会派系オランダ改革派教会(GKN)を組織、その指導的神学者となった。1880年アムステルダム自由大学を創設。さらに彼は政治家となって反革命党(Antirevolutionalire)の党首となり、1901~1905年オランダ王国総理大臣になる。

カイパーの基本政策は彼の精神的父祖であるフルーン・ファン・プリンステラーから受け継いだ「領域主権論」(Sfeer sovereigniteit)[12]に基づく教会と国家の分離主義であり、相対的に見て分離の度合いの弱い国民教会(volkskerk)を維持しようとするNHKに対し、真っ向から対立することになった。GKNの神学的政治的立場を決定づけたのも「領域主権論」であった。

カイパーの「領域主権論」は当時の教会と国家を同時に支配するものであった。その内容は彼の『カルヴァン主義』[13]において鮮明に表わされている。それは有機体教会における再生者の文化、再生者の芸術、再生者の政党という意味での「キリスト教文化」の相対的な自立を要求するものである。この立場はカイパーの思想的後継者としてアムステルダム自由大学で「法理念哲学」を講じたヘルマン・ドーイーウェルト、またドーイーウェルトの従兄テオドール・D. フォレンホーフェン、さらにトロント大学のW. ウォルタースなどに受け継がれている。

しかし、カイパーの「領域主権論」とその政策を最も厳しく批判したのはNHKの牧師であり、アムステルダム自由大学の倫理学と実践神学の教授としてカイパーの同僚であったフィリップス・ヤコプス・フーデマーカー(1839年7月16日~1910年7月26日)である。

フーデマーカーは1897年、GKNのNHK離脱に対する抗議として『全教会と全国家!一党派としての改革派形成に対する抗議』[14]を出版して世に問う。領域主権論と神政主義との原理的対立が作り出す状況は、「ベルギー信仰告白改定問題」[15]において現れる。第36条における教会と国家の関係を定めた項目の改訂をめぐり、カイパーやバーフィンクたちの改訂論と、フーデマーカーたちの非改訂論とが対立する[16]。

このフーデマーカーの基本理念を最も忠実に受け継いだのがテオドール・L. ハイチェマであった。ハイチェマは、フーデマーカーの立場と共にカール・バルトの思想を取り入れ、カイパー批判の立場をさらに強化した。

このハイチェマの立場を受け継いだのがファン・ルーラーである。ファン・ルーラーは1933年、カイパー批判として『カイパーのキリスト教文化の理念』と題する講演を行ってこの立場を明確に表現した。ジョン・ボルトは、NHKにおけるフーデマーカー、ハイチェマ、ファン・ルーラーという流れの中に「反カイパー主義的強調」(anti-Kuyperian accent)[17]を読み取っている[18]。

次にファン・ルーラーの「政治参加」のあり方について見ていこう。ファン・ルーラーの生涯において彼自身の特色を最もはっきり示すものとなったのは、プロテスタント連合(de Protestantse Unie)のための活動を通してであった[19]。

プロテスタント連合とは、両改革派国民党(de Hervormd Gereformeerde Staatspartij)と自由主義的キリスト教的歴史的グループ(de groep Vrij christelijk-historischen)から生まれたものであるが、Ph. J. フーデマーカーの神政主義的理念に再び荒々しい形態が与えられたものである。すなわち、「聖書と改革主義的信条の基本原則に従って社会を整備する」ということである。

1946年選挙のためのプロテスタント連合の党綱領宣言と緊急政策は、ファン・ルーラーが際立って発言権を持っていた委員会によって起草された。ユトレヒトで1946年4月25日に行われた党の第1回一般討論会においては、ファン・ルーラーが「政治は聖なる事柄である」という題目の下で党綱領に説明を与えた。5月15日彼はラジオの選挙演説の枠において、プロテスタント連合にとってのヒルファーサム第二選挙区について(Lijst 7)語った。しかし彼は、日常的に政治を行う立場を辞退し、また1946年にすすんで選挙立候補者の筆頭人になろうともしなかった。彼は党綱領の政策の仕上げのための委員会の議長になった。選挙によって、党は下院における議席を獲得することに成功しなかった。プロテスタント連合は、常に小さな集団に留まった。彼らは、それ以降、ほとんど選挙に関与しなかった。

1947年10月、党の機関誌『自由なる国家』(De vrije Natie)の第1号を発行したが、そこでファン・ルーラーは編集長になった(編集主任はH. E. フラーヴェメイヤーであった)。それは、「自由なる国家」という題で彼が書いた論文と共に始められた。1948年の終わりに彼自身は、健康上の理由で党のための彼の仕事を非常に激しく制限することを余儀なくされた。もっとも彼はすでに彼の力を必要とする新しい分野を求めるようになっていった。

プロテスタント連合にとってのファン・ルーラーの意義について、ファン・スパンニングは、とりわけその方法において、そこで彼は政治と社会の発展を、解放後の最初の年において神学的にまた哲学的に解釈した、という所見を述べた。それにもかかわらず彼は、「ファン・ルーラーの見解は、それによって確固たる想像力のある将来展望という性格を獲得した」ところの実践的政治のための働きから、この思考の欠陥のうちに留まった。同時に彼は、プロテスタント連合は政党として失敗したと自覚した。結局、彼は連合にいくらか距離をおくようになったであろう[20]。

Ⅲ 「啓示の哲学」の展開

オランダ改革派教会の牧師であり、神学者であり、それゆえ全く教会という場所を舞台に活躍したファン・ルーラーが、その「参加思想」において考察すべきとみなした範囲は、一言で言えば、神の被造的現実全体であるということができる。

「それゆえ、教会の使徒的宣教的働きは、次の二つの方策において表現される。一方の面は福音伝道(evangelisatie)の働きであり、他方の面はキリスト教化(kerstening)の働きである。しかし、教会がこの働きに忙しく取り組み、教会・キリスト者・社会における人間の任務は何かと自問するときはいつでも、純粋に教会内で、少なくとも教会的になされる福音の説教だけに忙しく取り組んでいるあいだには考えが及ばなかったいくつかの現実にぶつかるのである。私は(科学、社会生活などの)文化命令(cultuurgebieden)の自立性、人間の共同的生の各様式を支配する内在的合法性、自然法の偉大な現実、ということを引き合いに出すのみである。あるいは、もっとスタティックでない表現で言えば、ダイナミックで歴史的なプロセスにおける単純な歩みの線、自分の身の上に起こる問題は自分で克服しようと努力する合理的人間、全く現実的で伝統的で客観的な所与における文化、そして最後に重要なことは、国家という途方もなく大きな現象である」[21]。

その視野は当然「教会内」に留まらず、「教会外」(buitenkerkelijk)に向かって行くことになる。しかし「世の諸問題を解決するために神学と教会では力不足である」とファン・ルーラーは考える。

「これを果たすためには他の諸科学や国家が不可欠である。和解の福音によって制限されているキリスト教神学には、存在の問いを解くことはできない。それゆえ哲学が必要である。それは、なるべくキリスト教哲学、すなわち『啓示の哲学』(H. バーフィンク)が必要である。説教はただキリストのみを『証言』しなければならない。説教によって全世界を『証言』するという意味ではない。神学は時間における贖いに起因し、哲学は永遠の存在に起因するからである」[22]。

こうして、神の全被造的現実をその視野に収める三位一体論的神学は、従来の「改革派教義学」(De gereformeerde dogmatiek)と並んだところに「啓示の哲学」(Wijsbegeerte der openbaring)が必要であるというヘルマン・バーフィンクの基本理念がファン・ルーラーにおいて再び前面にあらわれてくる。

「啓示の哲学」とは何か。バーフィンクはその立場を次のように説明する[23]。

第一に、特別啓示への信仰こそが、キリスト教神学の出発点であり、母胎である。科学は決して生命に優先せず、生命に服従し、そこから流れ出るものである。同様に、神認識の学は、神の啓示の実在に依拠する。啓示を土台とした神学は、神啓示と神認識の学を発展させるという光栄な責務を与えられる。釈義の方法によって、この啓示の内容を確証し、確証された内容を体系化し、その真理を弁証の方法によって主張し、人間の良心に推奨するとき、この責務を果たす。さらにこの責務に伴って、啓示の観念に追従する啓示の哲学の余地がある。すなわち、その形態と内容において、我々の知識と生活などに関連づけることである。

第二に、啓示の哲学は、広く世界によって発育された知恵と啓示の中に見出された知恵との関連を追究する。従来のキリスト教神学は特別啓示と一般啓示の区別を描き出したが、この区別は完結しておらず、全人間生活の十分な意義を明確にしたわけでもない。啓示はキリストの人格に中心を持ちつつ、その円周においては創造の全目的へと拡大する。啓示は自然と歴史から孤立するものではなく、大洋の孤島、水上の一滴の油のようなものではない。世界自体は啓示に依拠し、啓示があらゆる形態において存在するための前提であり奥義である。時のすべての瞬間に永遠が脈打ち、空間のすべての点に神の遍在が充満している。有限者は無限者によって保持され、あらゆる生成は存在に根差している。この前提において、全被造物と共にキリストの人格において我々へと来る特別啓示が成立する。創造と贖いの母胎は同一である。父なる神と、万物の世継ぎとされた神の御子は、世界を創造された同一の方である。罪によって隔離されたとはいえ、神の被造物への絶えざる接近がある。

このバーフィンクの「啓示の哲学」の中心問題は、まさに啓示と存在の関係であり、ファン・ルーラーがこれを発展的に継承していると私は推測する。T. G. ホムズ[24]によると、ファン・ルーラーの主著『律法の成就』[25]の副題は、この著者が啓示と存在との関係の問題を取り扱っているということを示している。この書物においてファン・ルーラーがこの特別な問題に取り組んでいるという事実は偶然ではない。反対にそれは、彼の「神政主義的神学」(theocratic theology)全体の主要な関心事を表現していることにおいて象徴的である。啓示と存在は、ファン・ルーラーの神学的関心のあいだを絶えず往復している二つの柱であり[26]、彼の神学的全作品の二つの焦点である。このように述べて、ホムズはファン・ルーラーの神学を「文化の神学」として特徴づける。ここで文化とは、人間の行為と人間の生活の全体性という広い意味で語られている。

ファン・ルーラーの第一義的関心は、啓示であり、神の御言である。この啓示についての関心が改革派的伝統の中心的事柄を映し出しているという事実を、ファン・ルーラーは強く意識する。事実彼は、自分の生まれた境遇とこの改革派伝統とを意識的に同一化する。しかもファン・ルーラーが彼の初期の訓練を受けたサークルの中で一般的に普及した敬虔のタイプは「御言の神秘主義」(the mysticism of the Word)と呼べるかもしれない何ものかによって特徴づけられている。この敬虔のタイプにおける決定的な概念は「内的経験」(inner experience, bevindelijkheid)である。「内的体験」は心霊主義的主観主義の意味で理解されるべきではない、とホムズは主張する。

さらに、実にファン・ルーラーは、それを彼自身が認め、彼の批評家のうち何人かが不賛成の態度を示したこととして、内心において哲学者であるとホムズは考える。彼は学生時代の最後に、1932年から1933年にかけてヘーゲル、キルケゴール、トレルチの歴史哲学についての一つのスケッチを書く[27]。とくにトレルチ研究によってファン・ルーラーは、「政治的妥協」(political compromise)[28]というトレルチの概念の中に表現されている歴史的相対主義の価値を発見する。「神の歴史的終末論的行為」(the historical- eschatological acts of God)という具体的で歴史的な言葉で考えるように彼に教えたのもトレルチである。「歴史的相対主義」の理念はファン・ルーラーの神学の恒久的要素となった。我々はその理念を、神の国は断片的で偶発的な仕方においてのみ存在と関係づけられるという彼の主張の中に見出す。神の国はカイロスの瞬間に扇風機のように特殊な歴史的状況を押し広げ、存在を切り開くことによって自分自身を現わす。同じことはカメレオンのイメージで表現される。ファン・ルーラーは神の国のカメレオン的性格を「文化的環境は地方色を帯びる」という意味で語る。その趣旨は、神の国は常に新しい形態をとるということである。

歴史的相対主義の要素は、神政主義(theocracy)というファン・ルーラーの概念の中に表現されている[29]。それはよく準備されたプログラムとか、政治的関係性の原型というようなものではない。むしろそれは、所与の状況の神政主義的内容である。神の主権性が現実化するのは、世において、また教会と国家との固有な関係において、ということである。

ファン・ルーラーの歴史への関心は、彼のヘーゲル研究に関係している。「教会・国家・文化に対する神政主義的意識とは、すべての存在に向けられる神の歴史的終末論的行為の全体を包摂する存在を知ることである」という定義の中にファン・ルーラー神学におけるヘーゲル主義の影響がある。教会・国家・文化というものが神の国の実現における手段として意識されるとき、それは自己の行為におけるきわめて普遍的な行為を特殊化するのである、とホムズは主張する。

以上のことから我々は、ファン・ルーラーにおける「啓示の哲学」の展開が、オランダの新カルヴァン主義的教義学的思考とドイツの歴史的相対主義的思考の総合によってもたらされたものと見ることが可能であろう[30]。

Ⅳ 新しいキリスト教的文化理念をめざして

ファン・ルーラーは、啓示と存在の関係を扱う彼にとって最初の有名な書物『カイパーのキリスト教的文化の理念』[31]において、アブラハム・カイパーの文化の神学についての議論を発表する。ファン・ルーラーがその中で神学的活動を開始するオランダの状況の大部分がカイパーの理念によって支配されていたことを考えると、これは驚くことではない、とホムズは語る。ファン・ルーラーは、カイパーの神学が「オランダの状況の大部分を支配しており…我々がしばしばキリスト教的政治、キリスト教的社会事業、キリスト教的ラジオなどを問題にすることにおけるあり方は、カイパーのキリスト教的文化の理念における基調であるところの一般恩恵の教説なしには考えられない」[32]と書いている。

ファン・ルーラーは、少なくとも彼の神学的思考の当時の段階にあってカイパーと同じ神学的カテゴリーにおいて考えているということは、たしかに語り得ることである。W. H. フェレーマがファン・ルーラー本人の口から「カイパーから多くのことを学んだ」[33]という命題を引き出したことは、彼をよく知るために重要である。

ホムズは、我々の意図は『一般恩恵論』[34]を概観することではないし、ファン・ルーラーがこの書物に対する批判的評価に至るときに彼がカイパーを正当に扱っているかどうかを調べることでもなく、カイパーのキリスト教的文化の理念についてのファン・ルーラーの解釈と批判からファン・ルーラー自身の立場を結晶化するのが我々の目標であると述べている。彼と同様、私も、ファン・ルーラーの所説、ホムズの解説を借りてカイパーを批判するという暗黙の意図を持っているわけではない。

ホムズによると、カイパーによる文化についての生き生きとした関心は、神と世との関係、神の恩恵と人間の日常生活との関係について定義するという彼の試みにおいて、それ自体を表現している。カイパーの概念的手段は、特殊恩恵と一般恩恵との区別である。前者の特殊恩恵は内的で霊的で神秘的な魂の生ということばで定義される。それは何よりもまず個人の再生において、信徒個々人の変化において、そして教会において自己を現わす。教会とは最も優れた特殊恩恵の制度である。

今や、特殊恩恵はいかにして信徒がその中で生きる世、すなわち文化へと関係づけることが可能かという問いが生じる。教会論のことばで言えば、特殊恩恵の共同体としての教会はいかにして外側の世へと関係づけられるのかということである。カイパーはこの問いを語りながら、特殊恩恵と文化とのあいだの媒体(medium)としての一般恩恵の概念を導入する。カイパーにとって一般恩恵とは「その上で特殊恩恵が世(wereldtijd)の中に現われる場所である。それは特殊恩恵のさらなる精密化であり、補足であり、修正である」[35]。

今やひとは、カイパーが特殊恩恵を個人主義的に定義する線において、この媒体を世における信徒の現実存在ということばで叙述するだろうと予測するかもしれない。事実その思想は、有機体としての教会が特殊恩恵と文化とのつながりを提供するということを思い浮かべている。しかし制度としての教会の媒体的機能というのもある。さらに、一般恩恵と相対的に自立した特殊恩恵とに由来する一つの「キリスト教的文化」という考えがある。

ここでカイパーは、恩恵の三つの異なる現われを決定する、とホムズは整理する。

a. 特殊恩恵の制度としての教会

b. 世の中に分散した信仰の共同体

c. 一般恩恵の領域としての世

「キリスト教宗教のランプは制度の壁(de wanden van het instituut)の内側でのみ燃える。しかしその光は窓を通して、とても遠くに外側へと輝くのである…」[36]。教会から放たれた光は、教会の宣教において、キリスト者の模範的生活において、制度的教会の共同生活において輝くのである。

今や問題は、特殊恩恵の光がそれを取り囲む世の中へと訪れるときに何が起こるのかということである。カイパーは、特殊恩恵の影響力(the influence of particular grace)の下で一般恩恵の潜在力(the potential of common grace)が成就するという考えを導入する。恩恵の源であり、かつそこへと特殊恩恵が限界づけられている存在と共にある教会は、今や一般恩恵が成就されていくプロセスにおける手段として見えてくる。ファン・ルーラーは、カイパーが一般恩恵の内部に二重の区別を導入していないかどうかを怪しむ。「一般恩恵は絶対的自立的であるところの自存的なものか、それとも、特殊恩恵がその中で自らを示すための形態に過ぎないものなのか」[37]。

この問いは、さらにカイパーの次の命題によって確かめられる。すなわち、特殊恩恵は一般恩恵を成就する。なぜなら、創造における本有的善性は残余しているからである、とカイパーはいう。「罪がもたらされたという変化にもかかわらず、神の偉大な計画は実現している。…神の意図は、罪が起こらなかった場合にはこのようなものであったであろうものとして、人類を発展させることを許容することである」[38]。

キリスト教的文化の可能性は、こうして、特殊恩恵の出発点からというよりも一般恩恵の潜在力という基礎づけの上で議論されている、とファン・ルーラーは結論づける。そのとき、もしキリスト教的文化というものが一つの事実となるとしたら、特殊恩恵の機能は何なのであろうか。

ファン・ルーラーは、カイパーが二種類のキリスト教的文化をもって終わっている、と結論づける。

第一は、成就した一般恩恵の潜在力から生じるものであり、

第二は、世における特殊恩恵の影響力によってもたらされるもの、である。

これらは二つの同心円(twee concentrische cirkels)として関係づけられる[39]。内円は特殊恩恵によってもたらされた集中化されたキリスト教的文化のそれである。外円はその中で特殊恩恵が自らを現わす一般恩恵の領域である。二つの円の内属関係は機能的協力関係(functional cooperation)ということばで理解できる、とホムズは説明する。

「集中化されたキリスト教的文化活動は、一般的キリスト教的文化にとって必要である(noodzakelijk)ゆえに、そこには相互連関が横たわっている」[40]。

この「必要である」という意味は、「自浄作用」(self-purification)という概念において説明されるものである。あるとき一人の人が再生され、信徒となる。そして彼は自らの信仰を告白し、模範的生活を生きるために、世の中へと、すなわち一般恩恵の領域の中へと出ていくのである。「我々の性格と生き方を高尚にする」[41]この自浄作用という模範的生活は、信徒が一般恩恵の潜在力を分け持つという真の事実であるゆえに可能である。ファン・ルーラーは、この自浄作用という概念があらわになることから、一般恩恵の領域とはその中で特殊恩恵が有効であるところの領域であるわけではないと結論づける。むしろ、それは恩恵の相対的に自立した現われである。このようにカイパーは、特殊恩恵と一般恩恵との反定立(antithesis)をもって終わる。概念的に見れば、この反定立は分かりにくいだけのものであり、一方の「作用因」(causa efficiens)としての特殊恩恵と、他方のキリスト教的文化の「場所」(locale)としての一般恩恵とのあいだのカイパーの区別によって説明されているわけではない。

ファン・ルーラーの文化の神学は、カイパーに対する彼の批判においてはっきり見えてくる。その中でファン・ルーラーは、恩恵と存在との真の総合(synthesis)に到達するために、カイパーの誤りを明らかにする。今や我々は、この批判のいろいろな局面について議論する、とホムズは述べて、ファン・ルーラーのカイパー批判を以下三点に要約する。

① ファン・ルーラーは、恩恵とは全創造の上にあり、全創造の中にあり、そして全創造と共にあるところの神の啓示的歴史的行為として受け取られるものであり、カイパーが行なった方法で特殊主義的な意味で定義することはできないと主張する。神の恩恵とは選抜的恩恵である、すなわち万人に無差別に割り当てられていないという事実は、神の主権的行為の普遍的視野を取り去るわけではない。もし恩恵が「特殊的」(particuliere)と呼ばれるならば、それは質的な意味においてというより、数的な意味においてそうである。

神の恩恵的行為のこの普遍的視野とは、その上に置かれるすべての概念的諸制限を排除する。それは例えば、恩恵と魂の内的神秘的生とを心霊主義的に同一視することを否定する。それはまた、特殊恩恵と存在との一体性についての独占的に始原論的な理解、すなわちその一体性は創造における仲保者としてのキリストの人格の中でのみ起こるという理解を否定する。同じように、この一体性を独占的に終末論的に考えること、すなわち神の国と存在との究極的一体化ということばで考えることは間違っているのである。

ファン・ルーラーの命題は、特殊恩恵は罪にもかかわらず存在と関係づけられており、またまさに創造と歴史の究極的完成とのあいだの時代における存在の政治的構造において自らを現わすということである。存在以外に質的なものとしての特殊恩恵を指摘することは二元論の要素を持ち込むことになる、とファン・ルーラーは主張する。このような恩恵概念は文化についての真剣な関心を不可能にする。文化とは第一義的に公共の生活と政治的構造の手段である。「そのうえ文化とは内面的な何か(iets innerlijks)であるだけでは決してなく、常に外面的な何か(iets uiterlijks)である」[42]。

しかしながら、これは特殊恩恵と存在との関係は直接性ということばで定式化されるべきであるということを意味しない。事実ファン・ルーラーは、カイパーの何人かの学生たち[43]がそれを正当化するよう試みることに全く批判的である。ファン・ルーラーは特殊恩恵と文化とのあいだには一つの媒体がなければならない、と主張する。この点でファン・ルーラーは、カイパーに全く同意するのであり、カイパーはたしかにこのような媒介を提供するために一般恩恵の概念を導入するのである。ところが、ファン・ルーラーは真剣な留保を持つ。彼は媒体についてカイパーが一面的に聖霊論的に指摘することに対して特別に批判的である。カイパーは、聖霊は十分に世の中に立っている信徒に与えられる、と主張する。他方、特殊恩恵と文化とのあいだの関係というものはメシアの生とみわざとの関連で理解されるべきである。この関連はカイパーにおいて全く欠落している、とファン・ルーラーは主張する。

ファン・ルーラーは、神と世との関係についての聖霊論的次元とキリスト論的次元とを同時に保持するよう試みる。ホムズはファン・ルーラーが再三にわたって「三位一体論的歴史理解」(a Trinitarian understanding of history)と称するものを弁護していたことを証言する。これによってファン・ルーラーは、全存在は以下の三つの視点において同時に(simultaan)理解されるべきであるということを語ろうとしているのである。

御父なる神の終末論的行為の全体性の視点において

御子の十字架から世を支配する神の視点において

御霊を通しての恩恵と存在との一体性の視点において

まさにホムズが教えるこの「三位一体論的歴史理解」、あるいは「三位一体論的歴史哲学」ということが、ファン・ルーラーの「参加思想」を理解するための重要な鍵であると私は考えたい。「三位一体論的神学」は「歴史哲学」を内包するのである。ホムズは、この三位一体論的視点は「同一化」(identification)という一元主義的概念に訴えることなしに、総合(synthesis)ということばにおいて考えることをファン・ルーラーに許していると見る。こうしてファン・ルーラーは、神の恩恵とは世と人間の心とに聖霊を通して内住している、と結論づける。この内住において恩恵と存在との一体性が確立する。しかし、神は世を十字架から支配される。これは、神と世との全関係が裂け目(罪)と橋(贖い)の手段であることを指し示すのである。

② ファン・ルーラーのカイパー批判の第2の焦点は、教会論的事柄である。それは、神と世との関係における教会の役割についての問題に関するものである。我々が上で見たように、ファン・ルーラーは、特殊恩恵は存在へと関係づけられることができるし、実際に関係づけられているものとして一つの媒体を通して存在していると主張する。もし教会がそのような媒体であるならば、教会は特殊恩恵と文化的形態との両方の担い手でなければならない。教会は特殊恩恵と文化の交差点に立たなければならないのである。教会を特殊恩恵の唯一の現われとして考えることは、教会を世における日常生活の外側に孤立した位置に置くであろうという理由からして誤りである。それゆえ、教会、特殊恩恵の領域、一般恩恵の領域としての世、というカイパーの区別は、ファン・ルーラーにとって異質にして受け容れがたいものである。彼の神学的努力は特殊恩恵の領域と一般恩恵の領域というこれら二つのものの綜合に向かって方向づけられている、とホムズは考える。

ファン・ルーラーにとって、教会とは単なる「キリスト教宗教のランプ」ではない。このイメージは、優越性、超然性、尊大な孤立性を示唆するものである。むしろ教会は「国民教会」(volkskerk)である。すなわち、文化の全局面に関心を持ち、かつ日常生活の政治的構造における神の国の歴史的現実化における一つの手段として機能するものである。「国民教会」としての教会は、その中でそれが機能しているところの文化の中にその根を持っている。教会はこの文化に属するのである。もし教会がそのようなものでないとしたら、教会は国家の文化的生活においてその役割を果たすことができないのである。

「教会それ自体において文化が建設されるわけではない。〔文化建設にとって〕特殊恩恵それ自体はふさわしくない。文化は異なる物質と異なる形態とを必要とする。〔物質と形態という〕両者は、一般恩恵が支配する教会外の生活の中に横たわっている。両者は特殊恩恵を必要とする」[44]。

ファン・ルーラーがカイパーの文化の神学に身を寄せる複雑な心境は、今やはっきりと見えてくる。一方で彼は、カイパーが特殊恩恵の現われとしての教会と一般恩恵の領域としての存在とのあいだの橋を築くために真剣に努力していることに敬意を払う。他方彼は、もし教会が独占的に特殊恩恵と同一化されるのだとしたら、我々はどうしたら橋を築くことができるのかという問いは起こらないのである。ファン・ルーラーはこの橋を贖いと救いということばで解釈する。それは存在の潜在力が成就したものではなく、実行された神の意志である。それはイエス・キリストの贖いによって神の義が満たされ、神の国が肉の被いの下で、すなわち罪深い存在の真の構造の中で、形態を獲得することを意味する。教会と文化は共にこの脈絡の中で理解されるべきである。教会は神の国の文化的現実化の外側に立っているわけではなく、存在は神の行為の場所に過ぎないものではなく、かつ現実化されるべき潜在力の領域でもないのである。

教会は、存在の真の諸形態の中に特殊恩恵の現実を確立するための神の終末論的努力の手段になる。こうして人間の文化的行為は神政主義的次元を獲得するのである。

③ ファン・ルーラーは、恩恵と存在との関係を歴史的視点の中に置くことによって、さらに練り上げる。これは彼の神学の第三の焦点とみなされるものである。

カイパーは、特殊恩恵による一般恩恵の成就はキリスト教界と世の諸国家との出会いの中で起こるという命題を提出する。これは受肉の時に唯一無二の仕方で起こった。あの瞬間に「特殊恩恵の流れは、全堤防を破壊し、すべての世を越えて拡散した」[45]。この拡散は、キリスト教界の拡大していく影響力を用いて、またキリスト教的文化の拡張していく境界線を用いて起こるのである。

この点に至ってファン・ルーラーは、カイパーの立場に対する心からの裏書きを与える。事実、ファン・ルーラーが彼の書物の中でカイパーの理念に裏書(endorsement)を与えることにおいて、特殊恩恵と一般恩恵との一体化についてのカイパーの歴史的論証を評価する個所と同じくらい雄弁な箇所はここ以外にない、とホムズは強調する。ここでホムズが引用しているファン・ルーラーの文章を少し範囲を広げて訳出してみるとこうなる。

「この構造に関する歴史的判断は私の研究の範囲外に属する。それはヨーロッパ・アメリカ的文化圏におけるキリスト教界の支配的な意義は何かということ、また多くの停泊と水溜に対抗する一つの流れであるような理念は何かということに関連して、それらのものに印を付けていくであろう。我々は、トレルチの『歴史主義とその諸問題』[46]という書物からキリスト教界と人間的文化との関係についての全く異なる、あまり単純化されていないイメージを受け取る。しかしこの書物を除けば、カイパーの主張は、キリスト教界の絶対的普遍的意義についての何と際立って壮大な弁証であろうか!世的計画全体における特殊恩恵についての何と最高に鋭敏な位置づけであろうか!」[47]。

ホムズの強調にもかかわらず、私はこの個所でファン・ルーラーが本当にカイパーの主張を裏書きしているかどうかを問いに伏す。明らかに彼は、まずトレルチの歴史哲学を引き合いに出し、「この書物を除けば」と断りながらカイパーの主張の意義を賞賛している。ここで彼は、ヨーロッパ文化史の「絶対的普遍的意義」の評価については、カイパーの議論よりもトレルチの議論のほうが価値があると語っているのではないだろうか。このような議論の仕方を、ホムズのように「カイパーの立場に対する心からの裏書き(endorsement)」と見ることができるかどうか、私には疑問である。

それはともかく、ホムズによると、ファン・ルーラーの裏書は、ここでキリスト教界(Christendom)が歴史の中に現われている最高の頂点まで文化が到達しているというカイパーの見方を引き合いに出す。ファン・ルーラーは、カイパーと共に「キリスト教会が我々人類の一般的人間的発展の舞台に登場することの意義は安易に過大評価できない(II, 668)」[48]ということに同意する。ファン・ルーラーは、カイパーの思想の路線に従い、また歴史的積極主義の手法において議論しながら、キリスト教的文化の起源を指し示す。十字架の周りに信仰の共同体が誕生するとき、それは文化的諸制度の中で起こる。文化的諸制度の中での教会の機能とは、すべての世ならびに全人類へと方向づけられた神の終末論的行為における一証人であり、手段となると呼ばれることにおいて、独特無比なものである。この意味でカイパーが「一般恩恵は、特殊恩恵によって受胎する必要なしに、十分な展開と完遂に至ることは決して、どこでも、起こらない」[49]と付け加えたように語ることができる。

しかし、ファン・ルーラーは、カイパーのようにキリスト教界の歴史と世文明の発達とを同一視するところまでは進んで行かない。たしかに文化史は、制度としての教会の継続性に関係づけられている。しかし、前者は後者に絶対的に依存しているわけではない。

カイパーの誤りは、キリスト教的文化を国民生活における特殊恩恵の領域の伸展という言葉で考え続けることである。カイパーは、キリスト教的文化とはただ特殊恩恵が一般恩恵を代理する結果であるだけではなく、恩恵とその中で神の聖性と人間の罪性との対立を残すところの存在との一体性の出来事であると見ることにおいて誤っている。

ファン・ルーラーが特殊恩恵と一般恩恵の一体性について語っているのは、存在とその文化的歴史性の相対的自立性を弱める代わりにそうしているのではない。十字架は、この一体性が、存在の真の形態の真ん中で、またその内部において確立されることを明らかに示しているとファン・ルーラーは主張する。存在は、なるほどキリストによって法廷的に義とされ、聖霊を通して神政主義的に秩序づけられている。しかし本質においてデーモン的なものであり続ける。

この命題の光において我々は、カイパーは「時間の中にあまりにも特殊な恩恵を認めるので、あまりに特殊でない恩恵を認める」[50]というファン・ルーラーの結論を理解できるのである、とホムズは締めくくる。

(神戸改革派神学校卒業論文、1998年5月提出)


[1]  Paul Roy Fries, Religion and the Hope for a Truly Human Existence. An Inquiry into the Theology F. D. E. Schleiermacher and A. A. van Ruler with Questions for America. Utrecht (Th. D. Dissertation), 1979, p. 217.

[2]  Inventatis van het archief van prof. dr. Arnold Albert van Ruler (1908-1970), Samengesteld door Ellen M. L. Kempers, Utrecht Universiteits-bibliotheek, 1997. 以下、本文内なら『総目録』、脚注内ならInventarisと略記する。

[3]  本論文の参考文献表を参照。

[4]  ファン・ルーラーがしばしば用いる「改革主義的」(reformatorische; reformational)という表現は、従来の「改革派的」(gereformeerde; reformed)という表現と
相対立するものではない。たとえば北米キリスト改革派教会(CRC)の神学教授A. M. ウォルタースは、『キリスト者の世界観―創造の回復―』において「改革主義的世界観」という言葉を次のように説明する。「聖書について、また、世界の総合的な見方についてのキリスト教的思索の長い伝統、すなわち、聖書自身に発する伝統より出てきたもの」であり、「この伝統の最も傑出した代表者として教父エイレナイオス、アウグスティヌス、宗教改革者ティンダル、カルヴァン等を挙げることができる」のであり、「この聖書によって教えられた世界観は、罪とあがないの深さと広さについての聖書の教えをもう一度新たに発見したプロテスタント宗教改革の精神に適っているという意味で、『改革主義的』と呼ばれることがあ」る。「聖書と伝統の併用ではなく、聖書のみによって生きようとの願いは改革者たちを特徴づけるものであり」、我々は「さらに、継続的な改革に従事し、検証されない伝統によって生きるよりも、聖書によって絶えず改革(再形成)されたいとの願いにおいて、かれらの姿勢を踏襲するもの」である。「世界観についての改革主義的な思索は20世紀に入ってから目立った形を取るようになり」、「それは特にアブラハム・カイパー、ヘルマン・バーフィンク、ヘルマン・ドーイーウェルト、D. H. T. フォレンホーフェンといったオランダの指導者たちの働きに見ることができ」るものである、という(宮﨑彌男訳、西部中会文書委員会発行、聖恵授産所出版部、第2版、1998年、5~6頁)。ファン・ルーラー自身が「改革主義的」という言葉の定義をしている個所を私は知らないが、ウォルタースによる上記の定義から大きく外れることはないと思われる。

[5]  J. J. レベルは、彼の博士論文において、ファン・ルーラーにおける「相対的に自立した聖霊論」、「聖霊論的に正当化された神人協力主義」、「キリストのみわざと聖霊のみわざはいかなる場合でも同等の価値を持つ」などの主張は、カルヴァンならびに16~17世紀改革派諸信条の立場と全く合致するという見方を、論拠を挙げつつ実に53頁にわたって十分に論証している。Jacob Jan Rebel, Pastoraat in pneumatologisch perspektief, Een theologische verantwoording vanuit het denken van A. A. van Ruler. Dissertationes Neerlandicae, Series Theologica 4, J. H. Kok- Kampen, 1981, p. 151-203.

[6]  Rebel, ibidem, p. 30-33.

[7]  Rebel, ibidem, p. 33-37.

[8]  Rebel, Ibidem, p. 37.

[9]  これを要約して取り上げるつもりであったが、提出期限に間に合いそうにないので、本論文巻末に付録として、オランダ語原文からの私訳全文を添付した。

[10]  A. A. van Ruler, Verwachting en voltooiing. Een bundel theologische opstellen en voordrachten, Callenbach, Nijkerk, 1978, p. 9.

[11]  Rebel, Ibidem, p. 47-48.

[12]  市川康則「アブラハム・カイパーの領域主権論」『改革派神学』神戸改革派神学校。

[13]  アブラハム・カイパー『カルヴィニズム』聖山社。

[14]  Ph. J. Hoedemaker, Heel de Kerk en Heel de Volk ! : Een Protest tegen het Optreden der Gereformeerden als Partij en een Woord van Afscheid aan de Confessioneele Vereeniging (Sneek, 1897).

[15]  ベルギー信仰告白は、オランダ側では「オランダ信仰告白」(Nederlandse Geloofs- belijdenis)と呼ばれる。

[16]  John Bolt, The Background and Context of Van Ruler’s Theocentric (Theocratic) Vision and its Relevance for North America. Calvinist Trinitarianism and Theocentric Politics, 1989, p. xxxi-xxxii.

[17]  J. Bolt, ibidem, p. xxxiv.

[18]  カイパーの立場に対する批判は、NHKからだけではなく、GKN内部からも行われてきた。GKN内部から最初にカイパーを批判したのは、クラース・スキルダー(1890~1952年)である。スキルダーは、1932年頃カイパー批判をやや抑制した仕方で開始し、1938年にその立場を明確化した。さらにスキルダーの神学思想は、1944年における「解放派系オランダ改革派教会」(GKNV)のGKN離脱において決定的な役割を果たした。牧田吉和「改革派文化論の神学的再構築―K. スキルダーの場合―」『改革派神学』第18輯、神戸改革派神学校、1985年。

[19]  以下の文章は、Aart de Groot, Levensschets van Prof. Dr. A. A. van Ruler, p. xii-xiii.をそのまま訳出した。

[20]  H. van Spanning, In dienst van de theocratie. Korte geschiedenis van de Protestantse Unie en de Centrum-gespreksgroep in de CHU. Zoetermeer, 1994.

[21]  A. A. van Ruler, Verwachting en voltooiing, p. 23.

[22]  A. A. van Ruler, Verwachting en voltooiing, p. 26.

[23]  Cf. Herman Bavinck, Wijsbegeerte der openbaring. Stone-lezingen, voor het jaar 1908, gehouden te princeton, N. J., J. H. Kok, Kampen, 1908, p. 20-22. (ここでは、大山忠一訳、聖恵授産所出版部、20~24頁を要約した)。

[24]  Tjaard Georg Hommes, Sovereignity and Saeculum: Arnold A. van Ruler’s theocratic theology. A thesis presented by Tjaard Georg Hommes to The Faculty of the Divinity School in partial fulfillment of the requirements for the degree of Doctor of Theology in the subject of Theology Harvard University, Cambridge, Massachusetts, September, 1966. 第一章「ファン・ルーラー:文化の神学者」を参照。

[25]  A. A. van Ruler, De Vervulling van de Wet, G. F. Callenbach N. V., 1947. これは、ファン・ルーラーがフローニンゲン大学に提出した「博士号請求論文」であり、「最優秀賞」(cum laude)を獲得した。指導教授はTh. L. ハイチェマであった。

[26]  Cf. W. H. Velema, Confrontatie met Van Ruler, Kampen. J. H. Kok N. V., 1962, p. 5-6.

[27]  Cf. Aart de Groot, Levensschets van Prof. Dr. A. A. van Ruler, Inventaris, p. xi.「彼の専攻は宗教哲学であり、アールダース教授の指導の下にあった。とりわけ関心はヘーゲル、キルケゴール、トレルチから始められた。1933年彼は博士試験に失敗した。すでに彼はトレルチについての博士論文を書くことを計画していたが、今やまずは牧会に向かっての道に進んで行った」。なお、アールダース教授に提出された論文の表題は「歴史哲学におけるヘーゲルとキルケゴール」(Hegel en Kierkegaard in de geschiedenisphilosophie)と「エルンスト・トレルチと歴史哲学」(Ernst Troeltsch en het historisme)であった。

[28]  トレルチ『歴史主義とその克服』大坪重明訳、理想社、1968年、163~169頁を参照。「我々ドイツ人の多くにとっては、妥協といえばおよそ思想家の犯し得るもっとも軽蔑的すべきこと、もっとも低俗なことと考えられています。『あれか、これか』という徹底した非妥協主義が要求されているのです。…けれども、そんな人は勝手に問題をひねくりまわしていればよろしいのです。すべて徹底した非妥協主義というものは、不可能なことへ、そしてまた破滅へ、と導いてゆくものなのです。これについては何と言ってもキリスト教の歴史そのものが無限に豊富な教訓を示しております。キリスト教は、これを全体として眺めるとき、神国というユートピアと、尽きることなき現実生活との、大規模な、そのつど新たな形で行われた妥協であります。…もし全歴史の本質が妥協であるとすれば、思想家もその妥協を免れることは出来ないでしょう。そしてこの世のいっさいのものに妥協の性質があるということが、格別に重苦しく我々の魂を圧迫するようなときにも、思想家は自ら妥協の信者たることを告白せねばならないでしょう」(168~169頁)。

[29]  ホムズは神の国と神政主義との差異について、序論に論じている。

[30]  ただし、ここで我々は、ファン・ルーラーの思考において、オランダ的教義学的要素が出発点の位置にあり、ドイツ的歴史哲学的要素がそれを修正するという構図があることを認める。このあたりの理解は、近藤勝彦教授の次の評価を参考にすることができるかもしれない。「ファン・リューラーはトレルチを『逆立ちさせた』とは言わないまでも、トレルチにおいて前面にあった社会学的方法も含めた文化史的な歴史認識の具体性が、ファン・リューラーにおいては背後に退いてしまっていることは否定することができないであろう。ファン・リューラーは、『歴史的神学者』であるよりも、むしろ歴史の意義を認識した『教義学者』であった。彼は歴史から出発するより、むしろドグマから出発しているように思われる」(「アーノルド・A. ファン・リューラーにおける『歴史の神学』」『歴史の神学の行方』教文館、1993年、256頁)。おそらく、これは事実であろう。しかしもしそうであればなぜ近藤論文の題名はファン・ルーラーにおける「歴史の神学」であって「啓示の哲学」ではないのかということが問題にされるべきではないだろうか。「トレルチからファン・ルーラーへ」という近藤論文のアプローチは、「啓示から歴史へ」というファン・ルーラー自身が本来目指していたアプローチの方向を、ちょうど逆転させて見ているものである。その意味で、近藤論文はファン・ルーラーの神学を「歴史の神学」という特定のカテゴリーの中に置いて見るとどうなるかというあり方を示しているのであって、「ファン・ルーラー『における』歴史の神学」ではなく、「ファン・ルーラー『と』歴史の神学」についての研究である。ファン・ルーラー自身が「歴史の神学」というカテゴリーで何かを考えていたという事実はない。

[31]  A. A. van Ruler, Kuypers idee eener Christelijke cultuur, Nijkerk, 1939.

[32]  K. I. C. C., p. 5.

[33]  W. H. Velema, Confrontatie met Van Ruler: denken vanuit het einde, Kampen, 1962, p. 7.

[34]  A. Kuyper, De Gemeene Gratie, Kampen, J. H. Kok, 1902-05.

[35]  K. I. C. C., p. 12.

[36]  K. I. C. C., p. 21-22.

[37]  K. I. C. C., p. 46.

[38]  ファン・ルーラーはカイパーを引用する。K. I. C. C., p. 56.

[39]  K. I. C. C., p. 83. ファン・ルーラーはここで、「我々が知っているように、カイパーはヨーロッパとアメリカは一つのキリスト教的社会として、すなわち特殊恩恵の超自然的力を通して一般恩恵が強化された結果として見られるものである(II, 248)と主張する」と付言する。

[40]  K. I. C. C., p. 85.

[41]  K. I. C. C., p. 56.

[42]  K. I. C. C., p. 8.

[43]  S. G. ド・フラーフ、K. スキルダーを指す。

[44]  K. I. C. C., p. 20.

[45]  K. I. C. C., p. 38.

[46]  Cf. Ernst Troeltsch, Der Historismus und seine Probleme, Gesammelte Schriften von E. Troeltsch, Dritter Band, 1922.

[47]  K. I. C. C., p. 40.

[48]  K. I. C. C., p. 31.

[49]  Ibidem.

[50]  K. I. C. C., p. 146.