ファン・ルーラーの喜びの神学(2009年)

アラン・ジャンセン/関口康訳

数週間前、『ファン・ルーラー著作集』第三巻が自宅ポストに届いた。牧師でも神学者でもある私にとってきわめて重大な瞬間だった。しかし、第一巻がオランダで発売されたときは、あの国で著名な神学者が「これは国民的事件だ」と述べた。その方の言葉に比べれば、私が感じた興奮など取るに足りない。しかし、ファン・ルーラーの名は北米ではほとんど聞かない。この神学者の名前は、改革派神学を研究する一握りの人々の中だけで知られている。

しかし、この神学者の新しい著作集が刊行されることには神学的に重要な意味がある。オランダ語で書かれた書物であるという問題は当然ある。出版界に政治や経済の影響が及び、この著作集の英語版を手にすることは近未来にも遠未来にもありそうにない。私が抱えるこの思いを、どのように訴えたらよいだろうか。

ファン・ルーラーは二十世紀オランダの「三大」神学者の一人であるということから書くことにする。残り二人はノールトマンスとミスコッテだが、彼らも大西洋のこちら側ではほとんど知られていない。創造的な仕事をした影響力の強い人々であり、彼らの影響力はオランダの神学者に対して甚大なものがある。この三人の中でファン・ルーラーは他の二人とはいくらか対照的な存在である。ファン・ルーラーの名前だけがヨーロッパ以外の地域、なかでも南アフリカ、日本、そしてアメリカでも聞かれるようになった。『パースペクティヴ』誌の読者は、ユージン・ハイデマン、ジョン・ボルト、ポール・フリーズ、そして私アラン・ジャンセンを通してファン・ルーラーの影響を受けていると言えるかもしれない。

ファン・ルーラーの神学を要約するのは一苦労である。なにせ一巻本の組織神学を書かなかった人である。しかし、彼の神学は非常に創造的で、端的に面白い。ファン・ルーラーにとって神学は「存在の喜び」にかかわる。我々人間がいま生きていること、そしてまた、神が創造したこの世界が存在するのは善いことであると語る。我々が神に救われるとは、(「そこにいても構わないよ」的に)我々が存在することを神が許可するということだけでは終わらない。神が我々を救うとは、我々が喜びに満ちた神との交わりの中で存在することが許されるということである。しかしそれは、世界を覆う暗黒を無視することではありえない。その喜びはキリストの十字架を通して明らかにされるからである。

それでも神は、世界と人間を創造することを決心なさったときに抱いた意図ないし目的を放棄するのを断固拒否する。ファン・ルーラーの神学は「未来の神学」であり、「神の国の神学」である。そのような神学を1930年代から1940年代までにすでに展開していた。彼自身は、自分の神学的構想を「未来から考えること」(thought from the future/ denken vanuit einde)であると語った。

本誌の読者は、ヘンドリクス・ベルコフ著『キリスト教信仰』はよくご存じだろう。組織神学の教科書として、今でもオランダの大学で用いられている。しかし、ベルコフの神学はファン・ルーラーの神学とは全く対照的なマイルドなバルト主義である。たとえば、ベルコフの有名な書物のタイトルは『歴史の意味としてのキリスト』である。ところが、その本についてファン・ルーラーが発表した書評のタイトルは「歴史の意味としての人間」であった。なぜ「人間」が「歴史の意味」なのか。神が世界を創造された意図のすべてがキリストへと集約されるわけではないからであると、ファン・ルーラーは述べる。神の意志はメシアのみわさより偉大である。メシアは神の意志を地上で実行する。神が救おうとされているのはイエスではない。

しかし、だからといってファン・ルーラーはキリストに背を向けて遠ざかったわけではない。この神学者が熱心に取り組んだのは「全面的に展開された三位一体論的神学」だった。そのことを彼は独特の表現で説明した。「すべてはキリストへと振り向く。しかし、そのすべては神に創造された世界を向いている」。キリストの働きは中心的である。しかし、キリストのみわざは神の唯一のみわざではない。神はキリストを通してだけでなく、聖霊を通しても働く。ファン・ルーラーの論文の中で、唯一「キリスト論的視点と聖霊論的視点との構造的差異」だけは神学者たちに読まれたかもしれない。この論文は20世紀に書かれた神学論文の中で最も重要な一作である。三位一体論の現代的議論に対する彼の貢献の部分だけは頻繁に引用されるようになった。

喜びや遊びといった要素が彼の神学の中心部分にあるとしたら、彼自身の喜びはもはや彼の神学の中にとどまるものではない。新しい著作集の仕事は、この神学者が遺した膨大な文書を収めた書庫を衆人環視のもとに公開することである。それを最初に我々が目にすることになる。我々に読むことができるようになるのは、多くの人々の前で行われた講義や、大学の授業の際に用いられたノート。あるいは、彼が1970年に若くして亡くなった後に出版された多くの論文のオリジナル原稿などである。彼にとっては、神学そのものが遊びだったし、喜びだった。彼の著作は読者を生き生きとした神学的対話へと招き入れる。彼は徹底的に考え続け、驚き続ける。

新しい著作集によって公開されるすべての文書は、神学者にとって初対面のものばかりで、古典的主題をめぐる新しい対話が生まれる予感に満ち満ちている。ついでに言えば、ファン・ルーラーは哲学にも聖書学にも通じた神学者だったということを付け加えることができる。しかし、勉強マニアのような神学者ではなかった。ラジオを通してほとんど毎日のように多くのオランダ人に説教した。ファン・ルーラーの説教には聖書的かつ神学的な洞察がみなぎっている。

それなのに、ファン・ルーラーは、自分が生きている間に自分の神学が人々に受け入れられないことを嘆き、失望していた。この話には何の驚きもない。ヒントは上に書いた。この神学者はほとんどたった一人で、バルト主義の強大な支配力に抵抗し続けた人なのだ。ファン・ルーラーは被造物の価値をバルト主義よりも高く評価していた。また彼はバルト主義よりも明瞭な聖霊論を持っていた。

改革派神学の多くの部分にいまだにバルト主義の支配力が残存しているかぎり、ファン・ルーラーの声が聞かれる必要がある。ファン・ルーラーは、「21世紀になれば私の神学を読んでもらえるだろう」と言っていた。失意のうちに死んだ神学者の生前の願いがかなえられたかどうかは、今の時代の者たちに問われている。私が推測していたことは、ファン・ルーラーが予知していたのは彼の新しい著作集を熱心に求める人々が現れることだったのではないかということだった。そんなことを考えていた最中に、重大な事件が神学界に起こり、それが今も続いている。

著作集の完成までに相当な時間がかかる。現時点では全七巻が刊行される見通しである。次回の第四巻は来年出版される予定である。編集者の予告によると、これまで未公開だった予定論講義が掲載されることが約束されている巻である。

最後に言う。「ファン・ルーラーを読むためにオランダ語を学ぶ価値がある」。これは私の昔の言葉である。

(Reformed Journal 2009年12月1日号)

https://reformedjournal.com/joyful-theology/