コロナ時代にも価値があるファン・ルーラーの答え(2020年)

本紙記者/関口康訳

2020年12月16日8:14

「ファン・ルーラーは生涯においてしばしば自分は無視されていると感じていた。しかし彼の死後、多くの人の注目を集めるようになった」。

このように2020年12月15日(火)の夜、『ファン・ルーラー著作集』の新巻発売を発表したディルク・ファン・クーレン博士が主張した。

ファン・ルーラーが亡くなったのは、ちょうど50年前の火曜日だった。1970年12月15日(火)朝9時ごろ、彼はAVROラジオで放送される聖書黙想の収録を行った。ファン・クーレンによると「その2時間後、机に座したまま亡くなった。 3回目の心臓発作が彼の命を奪った」。ファン・ルーラーの子どもたちが火曜日のオンライン会議に出席した。

エキュメニストのハンス・クローネンバーグ博士が、ファン・ルーラーを「20世紀中でおそらく最もカトリック(公同的)なオランダ神学者」であると性格づけた。ファン・ルーラーは「カトリック」概念を全く新しく展開した。「カトリック」を「教会」に紐づけるのではなく「三位一体の神」と「神の国」へと紐づけた。「神は三位一体である。したがって神の国はカトリックである」とファン・ルーラーが述べた。

カンペンの実践神学教授ハンス・シェーファーが、ファン・ルーラーの礼拝論の価値を強調した。「礼拝の中で人生は真にエキサイトする。あなたは激しく生きることができる。しかし、礼拝がすべてを緊張させる。我々は礼拝において人生の核心に至るまで考え抜く。礼拝は教会内部のお祭りごっこではない。すべての被造現実を神にささげる行為である」。

2020年の教会、コロナ時代にあってもファン・ルーラーの答えには価値があり続けていると、シェーファー博士が語った。「ファン・ルーラーは教会の信徒と牧師に対して、礼拝を継続することについて、喜びに満ちた真剣さを持つことを勧めている。キリスト者が執り成しの祈りを真剣にささげることや讃美歌を歌うことをやめてしまったら、他のだれがそれをするだろうか。いま、礼拝が行われていない日曜日のこの悲しみをきっかけに、礼拝が持つ形成力を再発見しようではないか」。

プロテスタント神学大学で説教学と礼拝学の講師をしているシスカ・スターク博士が、ファン・ルーラーの説教論の中に彼女にとって妥当性がある論点を3つ挙げた。それは第1に「聖書にとどまること」であり、第2に「人間と世界の被造現実に思いを寄せること」であり、第3に「説教をダウジングロッドとしてとらえること」である。

最後の点は、ファン・ルーラーによると、説教とは神がどこでお働きになるかを感じとることである。「説教は生ける水の源である地下水脈につながる。私はこれを美しいイメージだと考える。古代の神秘主義者が用いたダウジングロッドのイメージを保っている。源泉を知り、道をつける。調査し、模索し、絶対的な確かさに至る。それが説教の中で起こる」。

ファン・ルーラーの死後、個人的な回想が多く報道された。ファン・ケウレンによると、「ファン・ルーラーの独創性と独立性には一般的な評価がある。しかし異色性を言う人もいる。ファン・ルーラーは考える材料を提供し続けた。オランダのプロテスタントにおいて独自の地位を得たことは広く認識されている。しかし、学派は形成されなかった。彼のセオクラシーが多くの人のつまずきだった」。

(改革主義日報インターネット版、2020年12月16日付け)

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拙訳は以上ですが、情報を追加します。

「改革主義日報」は、何度か閲覧すると課金を求められ、記事が読めなくなりました。やむをえないことですが、私はもう開くことができません。

画像が2つあり、そのひとつに「1963年に法学博士号を取得した妻に花束を渡すファン・ルーラー」というキャプションがついています。もうひとつはファン・ルーラー夫妻のお墓です。

墓石に刻まれた言葉は"De dood is overwonnen"で、直訳すれば「死は克服された」です。ぴったりは当てはまりませんが、第一コリント15章54~55節の「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか」に基づいていることは確実です。

1964年に出版された第一コリント15章についてのファン・ルーラーの聖書黙想集のタイトルが"De dood wordt overwonnen"(直訳「死は克服される」)です。"is"でなく"wordt"と現在時制にした理由を、ファン・ルーラーが同書の「序」(Ten geleide)で説明しています。

「本書のタイトルの現在時制(wordt)に次の3つの意味がある。イエスの復活において死が克服された(De dood is overwonnen)。終わりの日における我々自身の復活において死が克服されるであろう(Hij zal worden overwonnen)。その〔イエスに起こった出来事についての〕想起と〔我々に起こる出来事についての〕待望を、いま信じることにおいて死が克服される(Hij wordt overwonnen)」。