アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー教授略伝(1997年)

アール・ド・フロート/関口康訳

二〇世紀中盤のオランダ・プロテスタンティズムにおいて最も独創的な神学者であったアーノルト・アルベルト・ファン・ルーラーは、一九〇八年一二月一〇日、ディルク・ファン・ルーラーとヤンネツェ・クレイボアの子供としてアーペルドールンに生まれた。その家庭には二歳上の女の子が一人いた。ファン・ルーラー家は、フェリューウェの正統的なオランダ改革教会(NHK)の信徒の家庭であった。母はアハテルフック出身で、一九四四年に七四歳で亡くなった。父ファン・ルーラーは一九五六年に八二歳で亡くなった。のちにアーノルトが語ったように、彼は厳格な体験主義的正統主義の重荷を世襲的に継承した。しかし、彼の子供たちによると、アーノルトに存するフェリューウェ的性格という点は、彼が都合よくこびを売っていたことであるという。

ファン・ルーラーの家庭は、非常に質素な境遇にあって生活していた。アーノルトの父はパンの配達を職業としていた。彼はパン屋の配達車に乗って走っていた。彼の両親は、彼らの子供が早くから頭脳明晰であるという兆候を示していたので、小学校の続きを学ばせるのはやめようと考えていた。アーノルトは職業学校に通わなければならなかった。一年半の後、彼は職業学校からアーペルドールンのギムナジウムに転校した。彼は幼い頃から牧師になりたいという願いを持っていた。当時の職業学校は、大学で学ぶためにふさわしい準備教育をしてくれなかったのである。彼は一九二七年に、五年生で大学入学試験検定試験に合格した。

ファン・ルーラーは、その後三五年を経ても、大きな職業学校の後に行った小さなギムナジウム(当時、生徒は八五人しかいなかった)には、彼にとっていかに全く異なる世界が開かれていたかということに驚いていた 。当時、ファン・コネイネンブルク博士がクラスを指導していた。ファン・ルーラーは、古典に加えて数学に強く関心を示した。その感性は、彼がのちに教義学の講義を立体幾何学のような筋道の上で取り組んでいたことに表われている。「霊のすきとおった空間に多くの領域を打ち立て、区別された視点をすべて同時に見つめ、空間を通る連絡線を引いて、証明の方法を実行せよ。霊に関するこうした立体幾何学的訓練なしに、私はいかにして教義学者(そこでは途方もなく多くの想像力が必要である)でありえただろうか」。オランダ語のG・S・オーファーディープ博士(のちのフローニンゲン大学のオランダ語教授)は彼に純粋な学問的本能を呼び起こした。アーノルトと彼の学友たちは、並木道や公園において、「あまりお洒落ではなく」散歩しながら、深く語り合った。哲学者として有名になったS・U・ズイデマとの友情は、一九二四年夏に始まった。アーノルトはのちのギムナジウム時代において、H・バーフィンクやA・カイパーだけではなく、K・バルトやE・トゥルナイゼンの神学書を耽読しはじめた。G・ボルケステイン博士は、P・J・フーデマーカーとその教会的な考え方をしばしば参照しながら、教理問答教育をしてくれた。またそれより早くアーノルトに教理問答教育をしてくれた、アーペルドールン教会の牧師であったT・L・ハイチェマは、彼の神学的関心を刺激した。ハイチェマは信条の方向を、全き確信をもって支持していた。同時にファン・ルーラーは哲学のとりこになった。彼は、G・ジンメルの『哲学の主要問題』を研究し、またズイデマと共に、カントの『純粋理性批判』さえ研究した。信仰と科学の関係の問題は、彼を捉えて離さなかった。しかし彼はまた、熱狂的なサッカー選手としての正体を現わしたのだった!

ファン・ルーラーは一九二七年、アーペルドールンから、彼が神学生として登録したフローニンゲン大学に移動した。一九二三年にハイチェマがフローニンゲン大学のオランダ改革教会部門教授になっていたので、ファン・ルーラーがフローニンゲン大学を選んだことはよく理解できる。彼は学生生活を思う存分楽しんだが、学問において優秀な成績を得た。彼自身はとても早く羽化し、特別な才能を持つ学生であった。彼は試験で最優秀賞(cum laude)をとった。ファン・ルーラーは、戦時中若干の影響力を持つ教授たちを数えていたフローニンゲン大学の小さな神学部において、ひらめきを与えられ、徹底的な訓練を与えられた。彼は学生のディベートクラブ「TAPH」において、一九三〇年から一九三一年までその講座の座長であったが、講演会、報告会、黙想会といった諸活動に情熱をもって参加した。彼の友人A・J・ラスカー、T・ドクテル、J・M・ファン・フェーンも所属していた。また彼は、同じ年に神学部連合の議長とNCSVのフローニンゲン支部の部長であった。

フローニンゲンの学問的環境において、この若い学生は、多くの影響を受けた。そこで彼は、バルトの神学に加えて、とりわけそこから弁証法神学を理解しうるマールブルクの新カント主義の批判哲学について議論した。ファン・ルーラーがのちに定式化したように、バルトの神学は、彼にとって「信頼できる実体をあまりにも少ししか」持って「いない」ものであり、また「(氷のように)冷たすぎる」ものであった。それにもかかわらず、彼は、バルトやブルンナー、また彼らの友人たちが出版したものを―当然そのために、このスイス人たちに批判的に追従したハイチェマによって鼓舞されながら―徹底的に耽読した。当時、ブルンナーはフローニンゲンの神学生たちのために一つの講義を行ったが、終了後ファン・ルーラーがブルンナーに書面で一つの質問を出し、それについてブルンナーは次の朝もう一時間長く語ることになった。ブルンナー自身、H・F・コールブリュッゲの神学に精通しはじめていたので、一九二九~一九三〇年の講座において、「批判的な哲学と神学との混乱からキリスト論的実体を解放すること」になった。 それから、ファン・ルーラーは、彼の学生時代には一度も教会(当地の教会)に顔を見せず、疎遠になっていた。彼は時折、教会の夕べ(gemeenteavond)、また青年サークルあるいはアーペルドールンに古くからある青年同盟「ダニエル」のために、講義を行っていた。

ファン・ルーラーは、ハイチェマの次にG・ファン・デア・レーウとW・アールダースのような卓越した神学者たちを自らの教師であると思っていた。アールダースは、普遍的キリスト教思想家であり、神秘的に深遠な影響をファン・ルーラーに与え、彼を刺激もし、応援もした。四年間、ファン・ルーラーは、アールダースの個別指導授業に通った。そのとき彼は、F・シュライエルマッハーの『講話』(Reden)について手ほどきを受けた。宗教史家G・ファン・デア・レーウもまた、ファン・ルーラーに数え切れないほど多くの甚大な影響をもたらした。ファン・デア・レーウが、とりわけリタージの点において、あらゆる教会的な状況と慣習に対して少しも遠慮せずに行う批判に影響された。

文献目録から明らかにしうるように、ファン・ルーラーは、学生としてすでに出版を開始していた。彼の初期の諸論文(雑誌『神学の声』Vox Theologicaに掲載)は、TAPHのための諸講義から生まれたものである。この学問的神学雑誌(年刊)の第一巻(一九三〇年)以来、ファン・ルーラーは編集者の一員であった。編集長H・ファベルの間近で、一九三三年まで彼が編集実務を担当した。彼は、熱心かつ入念に多くの書評を寄稿した。

ファン・ルーラーは、博士号取得志願者試験のための学びの次に、教会的準備と牧師志願者試験(一九三二年)と、それに続いて行われる神学博士号取得試験(当時はまだ義務ではなかった)のための準備を行った。彼の専攻は宗教哲学であり、アールダース教授の指導の下にあった。とりわけ関心はヘーゲル、キルケゴール、トレルチから始められた。一九三三年、彼は博士号取得審査に失敗した。すでに彼はトレルチについての博士論文を書くことを計画していたが、今やまずは牧会に向かっての道に進んで行った。

一九三三年一一月二六日、博士候補生(Drs.)ファン・ルーラーは、クバート改革教会の牧師に就職した。彼の就職式は、ハイチェマ教授の司式によって行われた。ファン・ルーラーの就任説教がまもなく雑誌『己が旗の下に』(Onder eigen vaandel) において出版されたことは充分驚くに価する。一一月一七日、ヨアンナ・アドリアーナ・ハーメリンク(一九一〇年四月二六日生まれ)との結婚式に牧師が呼ばれた。新婦のいとこであり、新郎のよき友人であるJ・ロース博士によって結婚式が執り行われた。

ファン・ルーラーは、心と魂の牧会者となった。彼のような人にとって、信条主義的に色づけられたクバート教会は、良き出発点であった。彼はまた、初めから田舎伝道に関心を持っていた。オランダ改革教会(NHK)にとって一九三〇年代は、さらに前世紀にさかのぼる〔古い〕教会組織からの再編成をめぐる激しい戦いによって、顕著な増加を見せていた時期であるが、神学的な分野、また教会的な分野の新しい展開については、適切になされていなかった。異なる学派によって、一般の教会会議では得られないさまざまな再建案が提出された。ようやく一九三八年に、広く手をつないだ指導体制が確立し、(ハイチェマが指導していた)信条主義の立場に立つ「教会再建派」(Kerkherstel) と、(ユトレヒト大学教授A・M・ブロウワー博士が指導していた)倫理的で法的な自由主義の特質を持つ「教会建設派」(Kerkopbouw)とが共同して一つの再編成計画を提出した。この提案は、多くの議論ののちに否決されはしたが、〔両学派の〕協力の根底に置かれることになった。ファン・ルーラー自身は「教会再建派」のほうに合流したが、彼はハイチェマの弟子であったわけで、驚く必要はない。彼は何度か、フラネカーの分区(afdeling)において、神学的な問題、また実際的な問題についての講義を行った。ここに、彼がその年に新しいNHK教会規定の提案を行うための活動の序曲がある。

クバートの牧師館における厳密な学問的研究において、博士号取得準備の中間時(intermezzo)が訪れたので、改革派の先導者A・カイパーの神学に集中した。一九三七年と一九三八年、信条主義の週間新聞である『改革派教会』(De Gereformeerde Kerk)において、カイパーの一般恩恵論について四五回にわたる連載シリーズが公表されたのち、この主題は『カイパーのキリスト教的文化の理念』というタイトルの下で出版された一つの研究書において拡大され、『われらの時代』(Onze Tijd)シリーズにおいて出版された(一九四〇年)。この書によって、ファン・ルーラーは、カイパーの反定立政治(antithese-polotiek)という改革派の家庭内論争に介入し、とりわけ彼はK・スキルダーの立場を批判した。一九三八年、クバートの牧会者は、年毎にユトレヒトで行われる改革派牧師会のために、これに関係する題目についての講義の招待状を出した。このことは、彼がこの国の誰もがよく知る人になったことの一つの裏づけである。ファン・ルーラーは「自然と恩恵」について語り、その文章は『己が旗の下に』において公表された。

一九四〇年二月四日、ファン・ルーラーは、ヒルフェルスム改革教会の牧師に就職した。ヒルフェルスム時代は、三ヶ月後に勃発する戦争によって刻印を押されている。多くの教会的な仕事と報道の仕事が閉鎖に追い込まれた。ファン・ルーラーは、講義と共に、可能なかぎり、あらゆる会合に出席し続けた。彼はまた、ヒルフェルスム出身の神学生グループのサークルの世話人となり、一九四一年~一九四七年には、毎月一回土曜日の夕べに神学的諸問題について討議するために集まった。戦争後、四百頁以上の一連の講演を公刊した。一九四六年に『宗教と政治』(Religie en politiek)という書が出版されたとき、すぐに議論が引き起こされた。国家社会主義ならびにドイツ・キリスト者異端の蛮行に対決したファン・ルーラーは、戦時中、いかにしてキリスト教は世界に影響を及ぼすよう備えうるかという問題に没頭し、今や彼の神政政治的理念を展開することができた。

牧師としてのファン・ルーラーが、公生涯において、どれほどまでに、われわれの国〔オランダ共和国〕の戦後の建設に関与することを願っていたかということについては、たとえば彼が「オランダ復興ラジオ」(Radio Herrijzend Nederland)の礼拝番組の運営に関わることになった事実から明らかである。オランダ解放の年に彼が行ったラジオ説教のタイトルに、「神は世界と共に一つの計画を持っておられる」(God heeft een plan met de wereld)と記されている。H・ボシュマおよび二人の別の牧師たちと共に、彼は、一連の方向転換に関する実際問題についての説明を与えた。一九四七年には『展望と航行』(Visie en vaart)が出版された。その中には一九四五年と一九四六年に行った教会と社会に関する問題をめぐる七つの講演がまとめられ、また、非常に関心を集めたものとして、死刑と植民地についての二つの提案が増補されている。

ファン・ルーラーの公生涯において彼自身の特色を最もはっきり示すことになったのは「プロテスタント同盟」(de Protestantse Unie)の活動を通してであった。プロテスタント同盟とは、両改革派教会(NHK・GKN)の国民党(de Hervormd Gereformeerde Staatspartij)と自由主義キリスト教史グループ(de groep Vrij christelijk-historischen)から生まれた政党であり、P・J・フーデマーカーの神政主義理念に再び荒々しい形態が与えられたものである。すなわち「聖書と改革主義的信条の基本原則に従って社会を整備する」というものである。一九四六年総選挙用のプロテスタント同盟の党綱領宣言と緊急政策は、ファン・ルーラーがその中で際立って発言権を持っていた委員会によって起草された。ユトレヒトにおいて一九四六年四月二五日に行われた党の第一回一般討論会においては、ファン・ルーラーが「政治は聖なる事柄である」 という題目の下で党綱領に説明を与えた。五月一五日、彼はラジオの選挙演説の枠において、プロテスタント同盟にとってのヒルフェルスム第二選挙区(第七区)について語った。しかし彼は、日常的に政治を行う立場に立つことについては辞退し、また一九四六年に、すすんで選挙立候補者の筆頭人になろうともしなかった。彼は、党綱領の政策仕上げ委員長になった。選挙によって党は下院議席を獲得することに成功しなかった。プロテスタント同盟は、常に小さな集団に留まった。それ以降、彼らはほとんど選挙に関与しなかった。一九四七年一〇月、党の機関誌『自由なる国家』(De vrije Natie)の第一号を発行したが、そこでファン・ルーラーは編集長になった(編集主任はH・E・フラーヴェメイヤーであった)。それは「自由なる国家」という表題の下に彼が書いた論文と共に始められた。一九四八年の終わりに彼自身は、健康上の理由で、党に関する自分の仕事を非常に厳しく制限せざるをえなくなった。もっとも、彼はすでに、彼の力を必要とする新しい分野を求めるようになっていた。ファン・スパンニングは、プロテスタント同盟にとってのファン・ルーラーの意義について、次の意見を述べた。すなわち、ファン・ルーラーは、とくに方法において、オランダ解放後の最初の年における政治と社会の発展を神学的かつ哲学的に解釈した。しかし、そのことによって、実践的政治のために働くことから退き、この思惟の欠点のうちに留まり続けたのだ、と。「ファン・ルーラーの見解は、確固たる想像力に満ちた将来展望という性格を獲得した」。同時に彼自身、プロテスタント同盟は、政党として失敗したのだ、と自覚した。結局、彼は連合からいくらか距離をおくことを望んだ。

なお戦時下にあった一九四二年二月、ファン・ルーラーは、新しい教会構造を準備するためにオランダ改革教会大会によって設置された「教会規程の原理に関する委員会」(commissie voor de beginselen van kerkorde)のメンバーに任命された。戦時状況の圧力の下で、古い〔学派間の〕路線対立は二次的なものにとどまり、世界において福音の使信を宣べ伝えるべき教会の働きということが、まさにすべての強調を受け取ることになった。その委員会によっていわゆる『働きの秩序』(Werkorde)と題する草案の提案が導かれることになる、この委員会のメンバーは、一般大会(algemene synode)によって、またその後一九四五年七月二五日に管区執行委員会(provinciale kerkbesturen)によって、任職された。またその後、新しく編成された定期大会(generale synode)を、一九四五年一〇月三一日の正式な議事日程において、アムステルダムの新教会(Nieuwe Kerk te Amsterdam)で開くことができた。ファン・ルーラーはアムステルダム中会(classis Amsterdam)の代表として出席した。彼は、この教会の秩序に関する仕事において特別な努力を払い、また―当然のことながら、と語ることができよう―今や新しい教会規程の本文の仕上げを行うべき委員会にも選ばれた。一九四七年一〇月二四日に委員会が草案を提出したとき、ファン・ルーラーは、委員会書記のH・M・J・ワゲナー氏の次に、大会においてその草案を弁護しなければならなかった。オーステンブリンク-エヴァースは次のように語る。「それは二人のお得意とするところであった。ワゲナーは実用主義者であり、ファン・ルーラーは教義学者であった。ここでファン・ルーラーは、彼のお気に入りである神学における遊びの契機(spelmoment)について豊かに提出した。チケットはすでに手早く配られていた。ワゲナーは教会規程面の陳述に心を配り、またファン・ルーラーはそこで時々に(a la minute)神学的動機づけを与えた」。何もかも変更しなければならなかった長期にわたる手続きののち、一九五一年五月一日、ついに新しい教会規程が採用された。それはあらゆる点においてファン・ルーラーの神学の特徴を帯びているものであることは、全く明らかである。

牧師の仕事、教会規程関連事業への参加、政治的行動の次に、窮地に追い込まれた博士号取得のための研究(promotie-onderzoek)が重くのしかかってきた。ところが、彼は、多大な精神集中をもって、博士論文を書き上げることに成功した。初めは、アールダースの指導下でトレルチの研究を志していた。ところが、この企ては、次第に彼を魅了するものではなくなったようである。この点について、彼自身が次のように書いている。「わたしは、なおバルト主義神学の絶対的な語調(absolute toon)の中にあった。私自身において掘り返され、少しも裏づけを得ていなかった神政主義神学(theocratische theologie)が、フリースランドの田舎教会の状況を通して、また権力を手にした国家社会主義の台頭を通して、神学者にとっての教会と国家の問題となり、それが当時の文化的状況においてわたしをもっと魅了するものとなり、その内的確証に至る必要が生じたのである」。それで、ファン・ルーラーは、相談の結果、あらゆる制約から踏み出しただけでなく、同時に題材を変更もし、さらにアールダースの退職後でもあったので、ハイチェマに指導教授をお願いした。その題材は、今やより多く教義学的なものとなり、「いかにして神の啓示と人間の存在自体は相互に関係づけられるか」という問いを集中的に扱うものとなった。古い日付の諸研究がまとめられた(第一章、第二章、第三章、第七章の第二節と第三節)。残りは、一九四六年一〇月から一九四七年二月の終わりまで、 一気に書き下ろされた。『律法の成就』(De vervulling van de wet)という表題の下、その本は一九四七年の夏に印刷・出版された。一九四七年七月一日、ファン・ルーラーは、フローニンゲンで最優秀神学博士号(cum laude)を取得した。しかし、すべての労苦の後で、長期の休養が必要になった。

ファン・ルーラーは、神学博士号が授与される少し前の1947年1月3日、オランダ改革派教会大会で、M. J. A. デ・フレイヤー教授の後任者としてユトレヒト大学神学部「オランダ改革派教会担当教授」(hoogleraar vanwege de Nederlandse Hervormde Kerk)に任命された。担当教科は聖書神学、オランダ教会史、内国・外国宣教学だった。この任命は神学界にセンセーションを巻き起こしたと言える。教会担当教授たち(第一にファン・ルーラー、次にA. F. N.レッカーカーカー博士とG. P.ファン・イッターソン博士)が講義を実施させてもらいたいと要求していることをユトレヒト大学神学部が聞いたとき彼らは「ぎょっとした」。「特にそれ以前の神学部が幸いそれから守られてきた神学的けいれん状態に陥らないよう努めて警戒した」という。 神学部の色彩は長いあいだ倫理的正統主義に圧倒されてきたが、S. F. H. J.ベルケルバッハ・ファン・デア・スプレンケル教授は、ファン・ルーラーが弁証法神学に強い共感を持っていたにもかわらず、ユトレヒト大学神学部の第二の教会担当教授によく給料を支払ってくれた。しかし神学部は教会の任命を引き受けることができたにすぎなかった。とにかく全員で若い教授を全く無視するという制裁によって教会の任命に対して否定的に対応した。年月と共に、ファン・ルーラーとユトレヒト大学の同僚たちは心のこもった関係を育てるようになり、特に彼が長期の病気で仕事ができなかった期間、代行教授として彼の面倒を見る必要が生じたとき、その関係が良好なものになった。

教会部門教授としてのファン・ルーラーは、一九五二年にベルケルバッハ・ファン・デア・スプレンケル教授が退官するとき、彼の請求によっていくつかの担当科目を交換することができた 。そのとき彼に委嘱されたのは教義学 、キリスト教倫理学 、オランダ改革教会史 、信条と典礼文書、教会規則 であった。 

ファン・ルーラーは、牧師(predikant)として、というよりむしろ教授(hoogeleraar)として、面倒な招きは断っていたらしいほど、ひっぱりだこの説教者であった。彼は、ありとあらゆる関係において、また数え切れないほど多くの会合において、教会生活や社会生活に関する実際問題についても、あるいは教義学や教会法に関する主題についても、言葉を語っていた。長い間彼は「オランダ語討論センター」(Nederlands Gesprekcentrum)に参加していた。彼は、ローマ・カトリックの神学者たちと「ローマと宗教改革との論争」について、またヒューマニストたちと「人生観の問題」について、喜んで討論した。一つのクライマックスは、一九五三年三月一九日にハーグ〔正式名称's-Gravenhage〕にある大(または聖)ヤコブ教会において彼が行った演説である〔演説のタイトルは「百年後の司教杖」Na 100 jaar kromstafである〕。それは、一八五三年のオランダにローマ・カトリックの聖職者位階制度が回復されたことを支持するプロテスタント修道会(Protestants Convent)によって計画された会合である。

オランダにおいて、ファン・ルーラーは、彼が長年の間、二週に一度、彼が死亡する日に至るまで、AVROラジオのために続けた朝の礼拝番組によって、非常に有名になった。それを彼は、聖書の御言が日常生活において、理性と心に説明されるためである、と理解した。彼の温かい声、また彼がのちにまとめたものは、『喜びに向かって起き上がれ』(Sta op tot de vreugde)とか『世界のために勇気を持て』(Heb moed voor de wereld)というようなはっきりとした表題の下で出版された。また彼は、NCRVのラジオ講義にも招かれた。
国際的な関係においてファン・ルーラーの名前が認められたのは、比較的遅かった。実際、彼自身、一九四〇年代と五〇年代のオランダにおけるかなり標準的な大多数の神学者のために出版したものを、オランダ国外に向けて出版したことはなかった。一九五三年八月、ツァイストのウードスホルテンで行われた世界長老教会協議会(World Presbyterian Alliance)の会合で彼が行った「歴史的局面における御言への奉仕」(Der Dienst am Wort in geschichtlichen Aspekt)という発題に、多くの人々が満足した。それについて彼は、とりわけフランスのカルヴァン主義者たちから肯定的な反応を得た。彼は一九五六年から一九五八年、またその後も、西ドイツにおいて、次のいろんな講演を携えて、異なるいくつかの神学的会合に出席した。「三位一体神学の必要性」(Die Notwendigkeit einer trinitarischen theologie)、「死刑」(Die Todesstrafe)、「今日におけるオランダの神学と教会の諸問題」 (Probleme der niederlandischen Theologie und Kirche heute)、「キリスト説教と神の国説教」(Christuspredigt und Reichspredigt)。一九五九年一月八日デュッセルドルフで行われたカルヴァン生誕記念祭で、彼はジュネーヴの宗教改革者の生涯と事業について語った。またその後、同年四月二九日ユトレヒトで、西ヨーロッパにとってのカルヴァンの意義について語った。

戦後の教会一致運動(oecumenische beweging)の発展にとって、ファン・ルーラーの意義は、人々がおそらく期待していたよりも少なかったことは、いろんな理由がある。神学において、彼は、不屈かつ頑固な仕方で、改革派の立場を保持し続けた。彼は、終末論的な事柄としての「教会一致の神学」(oecumenische theologie)ということで、教会一致運動の原理的側面にある大きな問題を力強く掘り下げた。しかし、オランダ改革教会(NHK)とオランダ改革派教会(GKN)との差異は、彼の目から見ると家庭内戦争(familietwist)以上のものではなかった。その「証拠」(Getuigenis)を提出するための予備的討論に参加したいという彼の熱意から、一九六〇年代のオランダプロテスタント神学を支配し始めていた方向(「救いの社会化」vermaatschappelijking van het heil)についての深刻な懸念が語られた。それが一九七一年に出版されたとき、彼はもはや生きていなかった。その断章に彼の署名は無いが、彼の妻が起草者の立場を正当に継承した。

働き者であったファン・ルーラーは、長年のあいだ、いろんなろくでなしたちから、いじめぬかれた。一九五一年一月、彼の生命は危険にさらされた。一九六〇年の初め、彼は、働きすぎで倒れてしまった。一九六七年秋、彼は最初の心筋梗塞におそわれた。一九七〇年一二月一五日、三度目の心筋梗塞は終わりをもたらした。一二月一八日、彼の体はダエルヴェイクに埋葬された。質素な葬儀には、家族に加えて、非常に大勢の友人たち、同僚たち、学生たち、昔の学生たちが全国各地から参列した。

妻ファン・ルーラー-ハーメリンクは、夫の死後、独特な立場に就いた。五人の子供たちとの賑やかな家庭にあって、彼女の下に多くの人々が訪れた。それにもかかわらず、一九六三年、彼女は法学博士号を取得する好機に出会った。とりわけ夫の死後、彼女は、教会法について勉強していたのである。彼女は長い間、ユトレヒト改革派コミュニティ教会(Utrechtse hervormde wijkgemeenten)の長老であり、一九七四年一月から一九七九年一二月三一日まで大会議員となり、加えて拡大議長団(breed moderamen)のメンバーであった。ファン・ルーラーの『神学著作集』(Theologisch werk)は、その第一巻が彼の死の直前に出版されたが、第二巻から第六巻までは彼女が出版の準備を行った。またこのシリーズの他に、彼女はなお、夫の遺作のいくつかを出版した。彼女は、ファン・ルーラーの死後、彼の蔵書を、すべての手書き原稿と共に、慎重に保管した。ユトレヒトの王宮通りにある家には、彼の著作を熱心に研究している人は誰でも温かくもてなしてもらえる、手付かずの研究室が保存されている。一九九一年、彼女は家を離れ、療養院に入る必要が生じ、 そこで一九九五年一一月二八日に死去した。夫の墓の隣に置かれた墓石には、「死は克服された」 (De dood is overwonnen)と刻まれている。

【出典】
Inventaris van het archief van prof. dr. Arnold Albert van Ruler, Universiteit Utrecht, 1997.