人生の意味を問うことに意味があるか(1969年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

少なくとも近年の傾向として、多くの人が人生の意味を問うようになった。それの悪い面は、ドストエフスキーの忠告をいとも簡単に無視して人生そのものより人生の意味を愛するようになり、結局はお気の毒なことになってしまうことである。しかし良い面もある。人間は家畜のように生息するだけではなく、意識と分別をもって生きている。しかし、多くの人が人生に一つの意味を求めていることは憂鬱な話である。それは空しいことである。そのような答えの求め方をしてしまうと、我々は結局いかなる(良い面の)意味も見いだすことができない。それだけではない。人生の意味を見出すことができないのは我々だけではなく、隣人も皆そうでなければならないという結論に至ってしまう。

しかしまた、もっと徹底的に批判する人は、人生の意味を問うこと自体をさらに再び問う。その人は「人生の意味を問うことに意味があるのか」と問う。

この問いの中で我々はしばしば、理性を用いて人生に近づこうとする。我々が問うのは意味である。そして、意味とは常に理性の問題である。もしあることが意味を持っているとすれば、そのことが理にかなっている(合理的である)ことを意味する。もしそのことが絶対的な合理性を持っている(または、正当で十分な意味を持っている)とすれば、それについて必然性の要素が生じていることをも意味する。その場合は、我々は存在しなければならない存在である。それ以外はありえない。我々の存在が失われることはありえない。我々はありとあらゆる合理的な存在の必然性の中へと埋め込まれて置かれている。我々は一つの運命である。そしてそのとき我々は自分をいとも簡単に下のほうに置かなければならなくなる。我々よりも上にあるのは諦念(berusting)である。存在を哲学的に徹底的に突き詰めた先の終着点は諦念である。すべての事物は一回限りのものであり、それゆえそれらは存在しなければならず、必然的であり、理にかない(合理的で)、一つの意味を持っている。

聖書とキリスト教信仰は、人生に全く別の側面から近づこうとする。第一の特徴は、理性ではなく、意志という点から近づくことにある。そうすることが理性を軽蔑することを意味するわけではない。全く正反対である。とくに正統主義タイプのキリスト教は、理性の力を非常に信頼してきた。彼らは人生の奥義と福音についての理にかなった(合理的な)調査と検証と弁明の道をとことん突き進んできた。キリスト教正統主義が建て上げた、教義の堂々たる建造物が、その証拠である。

しかし、理性は、彼らにとって唯一のものでもすべてでもなかった。事柄の核心でさえなかった。あらゆる点で彼らは、意志こそが万物の土台であると主張した。意志こそが雄大な光である。その光は創造の思想から輝きだし、存在の奥義の中へと差し込むのである。なぜ我々は存在するのか。なぜ世界は存在するのか。それら一切は創造者の自由にかかっている。この自由(vrijheid)はさらに自由な力(vrijmacht)とも言い換えることができる。それは我々を〔無から〕有へと呼び起こされた創造者なる神の永遠の御心(eeuwig, goddelijk welbehagen)である。我々は何が何でも存在しなければならない存在ではない。我々の存在には何ら必然性は無い。それゆえ第一の特徴から言えば、人生には固有の意味や正しい意味などは無い。しかし、そのことが主〔なる神〕を喜ばせるものであった!絶対的な恣意性という意味での純粋な自由意志のことを言っているのではない。そのことがたしかに主を喜ばせた。神が御自身の手でお造りになったもの(被造物)を喜んでくださった。さらにもう少し掘り下げてみるとしたら、神の自由な力(vrijmacht)と御心(welbehagen)だけではなく、神の善性(goedheid)についても語ることができよう。神は我々に「存在する喜び」(plezier van er te zijn)をお認めくださった。世界が存在することに必然性は無い。しかし、世界は確かに善きものである。これがイスラエルの信仰告白である。異教の信仰告白に真正面から反対するものである。異教の信仰告白とは、世界の存在は必然性を持っているが、それは恐ろしい運命であるというものである。

イスラエルと同じように、我々は正しく応答しなければならない!神が世界と我々〔人間〕の存在を欲しておられる。そしてそのとき我々は世界と我々自身〔の殻の中〕から出て来なければならない!そこに喜びもある。存在が善きものであることが試される。そのとき我々は、自分の人生に一つの意味(een zin)があるのかどうかを、理性を用いて鼻でくんくん嗅ぎまわるようなことを始めるべきではない。しかし、第一の特徴の場合には、我々の意志や心の中の嬉しい気持ちを用いて、人生の一つの意味を生み出すことができる。我々にできないのは、人生に一つの意味を見いだすことである!しかし我々にできるのは、情熱をもって意味ある人生を送ることである。喜びが諦念に勝利しなければならない。それこそがキリスト者たる実存なのである。礼拝(リタージ、その意味は賛美)こそが我々の存在の本来的な要素なのであって、哲学ではない。

それにしても、キリスト教的に語る場合、存在には全く意味が無いとか、全く合理性が無いとか、全く必然性が無いと言うべきだろうか。そういうことではないということを、正統的な信仰に基づく次の三つの論点からお答えしておきたい。

第一の論点は、主なる神がただ一回御自身の自由な力において我々を創造することを決意なさったとき、神はその決意を実行なさらなければならなかったということである。それは絶対的な必然性というようなものではない。しかし、それはなるほど相対的で条件付きの必然性ではある。神が何かを決意なさるとき、その決意は決意のままでとどまるわけではない。神の決意はおのずから一つの行為になる。

第二の論点は、主なる神は恣意的な決意をなさる方ではなく、御自身は知っておられる理由をもって決意なさる方であるということである。神は一つ一つのみわざに対してそれぞれ固有の動機をあらかじめ持っておられる。その理由ないし動機は我々には全く隠されている。しかし我々はそのようなものが存在するということを肯定することができる。我々の存在の背後に隠れているのは神の善性だけではなく、神の知恵も隠されている。神は知恵を用いてすべてのことを行われる。我々の存在の地平線には合理性の曙光が垣間見える。

第三の論点は、創造者がなさったことは、(無意味な)事物を、ただ創造されたというだけではなく、この方は友情をもって接してくださる方でもあるので、創造なさった事物に一つの目的、一つの定めを与えてもくださったのだということである。このことを我々は一つの言葉で表現することができる。それは、永遠の栄光の御国(rijk van de eeuwige heerlijkheid)である。神が世界と人生をご支配くださる。その意味は、神が世界と人生とにこの定めを与えてくださるということであり、また神が一切を導いてくださる(罪と死の暗闇によってさえも)ということである。

しかし我々は、次のことを忘れないでおこう。人生の奥深く存するこの意味は、一切合切がそれの周りを回っているような、第一のものではないということを。それは付加的な、第二のものである。我々は人生の意味を問うことを楽しんでもよい。しかし我々は、人生の意味を問うことよりももっと多く、人生そのものを楽しまなければならない。

【出典】
A. A. van Ruler, Verzameld Werk.