改革派神学を見る視座(1969年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

1969年5月28日アペルドールン、オランダキリスト改革派教会(CGKN)牧師会講演。未出版。

改革派神学は「公同教会」の伝統における契機であることを要請する。それゆえ、それは自分の殻に引きこもってはならない。

カルヴァンは、歴史における聖霊のみわざの中に秩序と合法性を見出すことができるほど、きわめて発達した感覚器官を持っていた。また彼は、それらの中に神御自身の聖性を揺るがすものがあることを、じかに感じていた。そのためカルヴァンと仲間たちは、「教会改革」の意味は、転居や新築ではなく大掃除にすぎないことを、常に最も自覚していた。宗教改革は「公同教会」の伝統における契機である。「改革派教会」(ecclesia reformata)とは、宗教改革の滝を通り抜けた「公同教会」(ecclesia catholica)である。これは一方で、公同教会のすべての遺産を改革派教会が受け継いでいることを意味する。しかし、他方でそれは、改革派教会の存在は公同教会の伝統の中で理解されなければならないことを意味する。

しかし、本稿の主題は教会論ではない。信仰告白でもない。改革派教会の「神学」である。神学は「教会の機能」ではない。それは学問(wetenschap)であり、キリスト教化された存在の機能であり、国家をキリスト教化するための機能である。そして当然、神学は教会と密接な関係がある。そのため我々は「改革された教会」(ecclesia reformata)について語る場合と同じようなことを、必要な変更を加えて「改革された神学」(theologia reformata)の場合にも語ることになる。

改革派神学が健全に営まれていた頃は、常に普遍的キリスト教神学(universeel-christelijke theologie)の伝統における契機として自己を理解していた。それは第一に次のことを意味する。改革派神学はキリスト教の思想が幾世紀もの歩みにおいて提起してきたあらゆる問いに関心を持っているとともに、その地平に現われるあらゆる可能な答えに関心を持っているということである。

宗教改革者たちの熱情は、神の御心を実践的かつ救済論的に認識する場合、それは聖書に啓示されているとおりであるかどうかという関心へと徹底的に集中することに向かっていった。そのことゆえに、あらゆる答えが退けられたし、あらゆる問いさえ閉め出されてしまった。

しかし、この集中は、実は縮小(reductie)として理解されるほうがよいのではないだろうか。たとえば、スコラ主義者たちの問いは無益であり、思弁思想を生み出すばかりの有害な紡績工場であると言ってしまうことが本当に正しいだろうか。テルトゥリアヌスからカッパドキア三教父を経てアウグスティヌスに至る偉大な教父たちはすでに同じような問いに直面していたのではないのだろうか。一般的人間的な文化との接点において啓示の意味をよく考えてみたいと願うことや、神学と他の学問のつながりを完全に断ち切ってしまわないように願うのは避けがたいことではないだろうか。改革派神学が有するユマニスム的な文脈とセオクラシーの視点は、この神学を土台にして学問と文化を統合することへと熱心に取り組むための酵素として与えられているのではないのだろうか。

そのときまた、じつに素早い仕方で改革派スコラ主義(gereformeerde scholastiek)が現われてきたこと、またカイパーとバーフィンクの新改革派神学(neogereformeerde theologie)が明らかに、それ自体、哲学的文化理論という特質を持っていたことは何の不思議も無い。改革派神学は、この最も大きな視座の中に立ち続けなければならない。改革派神学は、キリスト教的救済論「と」キリスト教的存在論〔の関係〕についての問題提起を切り落とすべきではない。問いと答えで一対になっているものを互いに隔離することで満足すべきではない。

第二に、次のことをも意味する。改革派神学は、これの問い、またとりわけこれの答えを絶対化しない、ということである。ここで顕著な例は、アンセルムスの充足説(satisfactieleer)である。その意義を大いに激賞しないことなどありえない。

しかし、ひとがそれを一つの合い言葉(schibbolet)にし、正統主義の合い言葉にするや否や、限度を越えてしまう。そのとき、たとえばアタナシウスとアウグスティヌスは正統から外されてしまうことになるだろう。キリストの救済秘儀とキリストのみわざについてのアンセルムス的理解が、改革派神学において、また「改革された教会」(ecclesia reformata)の霊的生活において非常に大きな役割を果したことは明らかである。しかし、カルヴァンの場合、また改革派教義学の多くの問題提起においては、同様に力強い仕方でアタナシウス的思考方法の聖霊論的現実主義を見出すことができる。原則として、改革派神学はキリスト教思想の全伝統を自己のうちに受容した。全く真実に「改革派的に神学する」(gereformeerd te theologiseren)ために、幾千もの多様性において何度も何度も繰り返し異なる調子で考えて行かなければならない。

第三に、わたしがこの関連においてなお、再び強調して語っておきたいことがある。改革派神学は、全面的かつ終わりまで、少なくとも原則的に、三位一体教義の構造規定的意義(structuurbepalende betekenis)を真剣に受け取る、第一にして唯一の神学形態として理解されうる、ということである。すべてのことは三回、すなわち、御父の視点の下で、御子の視点の下で、聖霊の視点の下で、考え直されなければならない。それは、すべてのことを、何度も繰り返し、トータルに、異なる仕方で見つめることである。それは徐々とした変化ではない。ひとは何度も飛躍しなければならない。それゆえ、ひとはまた、一つのことを他のことへと還元(縮小)する必要がない。

この三位一体的な思考体系は、キリスト教の伝統から出たあらゆる問いとあらゆる答えを受けとめ、かつ対処するために、充分な容量を持っている。それは同時に、あらゆる答えの上に、前代未聞の修正を加える。たとえば、伝統の問題は、聖霊論の中心的課題になる。そのとき、それは、われわれがたんにキリスト論的にのみ考えているときとは全く異なる仕方で見えてくる。もう一つの例を挙げるなら、自然的神認識の問題はその教父学的な深みを推し量るものとなる(神御自身が―世界においてもまた、そして、とりわけ世界において―人間の自我の中に押し入ってくださる)。そのとき、それは、われわれがたんに、あらゆることはキリストにおいて啓示された超自然へと方向づけられているということに基づいて、人間を、自分の言葉で所与の現実について考え、それに基づいて推論し、結論を出し、神へと昇りつめる、そういう者としてだけ見ているときとは全く異なる意味を獲得する。

このようにあらゆる点から考えて、改革派神学は普遍的キリスト教思想の伝統の中に立ち続けなくてはならない。改革派神学が自分の殻に引きこもり、特殊な関心としての一対の質問と答えの中に自己限定し、まるで自分をキリスト教の一形態であるかのように理解してしまうなら、我々は「最良の堕落は最悪なり」(corruptio optimi pessima)と言わざるをえない。そのとき改革派神学は分派主義的になっている。改革派神学の存在の中に(そのラディカリズムと徹底性の中に)分派主義を生み出すあらゆる胚芽がすでにある。しかし、分派主義は改革派神学の本来の意図に反する。ただ、そのことを我々は実際に証明しなければならない。改革派神学は分派主義ではないと「言い張る」だけで済むことではない。

(続く)