聖書の権威と教会(1968年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

我々は(幸いにも)聖書論を扱うことも、聖書の権威論だけを扱うことも求められていない。同様に、(とくに複雑な)教会論について議論することも求められていない。我々は一方の聖書とその権威、他方の教会というこの二つの極を一緒に扱うときに飛び散るいくつかの火花について語ることに自らを制限することが許されているのである。

圧倒的な権威

我々が認める第一の火花は、聖書の圧倒的な権威が引き起こす火花である。とくに1世紀の教会がそれを体験した。そこには聖書だけがあった。ひとは旧約聖書をイスラエルの民の手から受けとった。新約聖書は、教会にとって全く自明のものとみなされ、やがて正典化された。

後の時代、とりわけ宗教改革期後の時代に、ア・プリオリな聖書の権威に関する実にさまざまな形式的理論が生み出された。それは氷河が事柄を越えて流れ去り、沈んでいくようであった。我々は、この種の理論の最晩年期に生きている。しかし驚くべきことがある。聖書の権威は、何よりも明らかに、その理論と共に立ちもし倒れもするものではない、ということである。その権威は、教会の中で、また教会を通り抜けて、一般に普及し、圧倒するのである。

そこにあるのは決して純粋に、ただ聖書のみ、ということではない。同様に本質的な仕方で、そこには常に、教会が存在する。そのため、聖書とその権威において重要である本来的な事柄は、常に、口述の説教ないし聖礼典の共同体的祝賀という形式の中にもあり、教会の伝統という形式の中にもある。しかし、この伝統の独創的要素を示すことができるのは、聖書の中に決定的な仕方で留まり続けている万物の起源(origo van alles)がいかに不思議なものであるか、にかかっている。

聖書のこの圧倒的な権威には、私がたしかに見ていることとして、とくに二つの側面がある。一つは趣旨の側面であり、もう一つは物語の側面である。

(続く)