聖書台としての聖書(1967年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

改革派教会の会堂の中に入ると同時に目にするのが説教壇であることは確実である。ほとんどの場合、説教壇が(残念ながら)礼拝の唯一の中心である。そして、次に目にするのは、説教壇から張り出している、がばっと広げられた大型の講壇聖書である。あの聖書はあんなところで何をしているのだろうか。

改革派教会の信徒や神学者は、カトリック教会への対抗意識という観点から、わたしたちにはあのように説教壇の上に講壇聖書があるということをやたら高く評価したがるところがある。そのとき改革派教会は次のようなことを主張したがっている。わたしたちが宣べ伝えているのは一つの教会の中に押し込められたサクラメンタルなキリストではない。完全に公開された、開かれた神の御言葉を宣べ伝えているのだ。わたしたちは伽藍の中でパンの神を拝むために膝を折るのではない。生きておられる神の純粋な声を聴くのだ。わたしたちはいかなる人間的な虚構にも耳を貸さない。ただひたすら神の言葉のみに傾聴するのだ。

しかし、このような言い草は世襲どもの酒席のたわごとではないだろうか。自分が何を言っているのか本当に分かっているのだろうか。改革派教会の説教壇の上に置かれたあの講壇聖書は、さらにその上に小さな聖書を置くためだけにある、単なる「聖書台」に成り下がっているのではないだろうか。いまだかつてあの講壇聖書がそれ以外の目的で使用されたことがあるのだろうか。あれが実際に読まれたことがあるのだろうか。礼拝論の議論の中では重要な問題であるが、礼拝の中での聖書の朗読は「聖書朗読」(Schriftlezing)と名づけるべきであろうか、それとも「説教個所の朗読」(lezing van de tekst voor de prediking)と名づけるべきであろうか。そういう問題が関係してくるであろう。

もちろん今でも何人かの牧師たちは、あの講壇聖書を説教個所の朗読のために使用している。なるほどたしかにあの聖書はそのためにも置かれている。神の御名において御言葉を語る説教者たちが、説教中にパラパラと頁をめくり、論拠となる聖書個所を引用するためにも、あの聖書は置かれている。

たしかにそうかもしれないが、しかし、それよりもはるかに頻繁に見られることは、改革派教会の教師のほとんどは自分の所有する小型聖書を説教壇まで持って上がる、ということである。そして、その自分の小型聖書を説教壇の上に置き、それを自分で朗読するのである。

難しい問題があることは分かっている。わたしたちの教会の講壇聖書は非常に高価なもので、17世紀に出版されたものである。その大部分がゴチック体で印刷されているので、ほとんどだれも読めなくなってしまっているのだ。

しかし、それだけではない。最も難しい問題がある。あの講壇聖書は、1637年に出版された「国家訳」(Statenvertaling)と呼ばれる聖書である。1618年から1619年まで開催されたドルトレヒト教会会議の要請に基づいて、オランダ議会がこの訳の聖書の製作を発注した。それで「国家訳聖書」と呼ばれるようになった。

現在活躍しているすべての学者たちが、当時の学者たちの翻訳の仕事に対して、最高の敬意を持っている。実際それは最高の業績であった。しかし、国家訳聖書がオランダ語の形成に大きな意義を持っているという説に関しては、私自身はあまり短絡的な過大評価を国家訳聖書に与えるべきではないと考えている。テキストの釈義のために付加された有名な「傍注」(kanttekeningen)が、本を分厚くしている。しかし、あの「傍注」こそは、アメリカに至るまでの全世界の信仰生活に深く影響を与えたものである。[a]

しかし、聖書学というのは、淀みにはまって動かないようなものではない。語学も、歴史学も、日進月歩を遂げている。17世紀のオランダ語が20世紀のオランダ語以上のものではありえない。だからこそ、新しい訳の聖書がたくさん出版されてきた。なかでも、オランダ聖書協会(Nederlands Bijbelgenootschap)の翻訳は特筆すべきである。いま書き並べていることはすべて、改革派教会の説教壇の上にあるあの講壇聖書はもはや用いられることはありえないということの理由であり、根拠である。もはや使用されることはありえないあの古い翻訳の聖書に対して、いまだに忠誠を誓っている牧師たちは、ばかとしか言いようがない人たちである。

ところが、あの偉大なる国家訳聖書は、いまだに説教壇の上に置かれ続けている。純粋な装飾品に成り下がっているにもかかわらず。あの説教壇上の国家訳聖書は、説教個所の朗読のために用いられる小さな聖書を置くための「聖書台」でしかない。聖書だけでなく、詩編歌、讃美歌、礼拝書、信仰告白集が同じ場所に置かれている。礼拝式文は、説教者の湿った手の中にしっかり握りしめられている。多くの頁の隅が折られている、緊張の汗の染みで黒ずんだ礼拝式文が。

こういう状態は、プロテスタンティズムの大きな不名誉ではないだろうか。文書化された神の言葉があのように静かに横たえられ、そのうえでわたしたちが何らかの義務を果たすための頑丈な板のように使用されているだけであるならば。

私自身、数年前まではこの大きな悪弊に気づいてもいなかった。ところが、何人かの、そうだ、実をいえば、カトリックの神学生がユトレヒト大学のわたしたちの研究室を訪ねてくれたとき、初めてそのことに気づかされた。彼らはわたしたちの中会会議を傍聴し、またそのとき行われた説教訓練に参加してくれた。その彼らが、わたしたちが長年続けてきた恥ずかしい聖書の扱い方を知って呆れていた。彼らが質問してくれたことは、「このような聖書観が現在の改革派教会の立場なのでしょうか」ということだった。

私は彼らの言うことが全く正しいと思った。しかし、それではどうすればよいのか。とにかくはっきりしていることは、わたしたちはあのような恥ずかしい講壇聖書の使い方をやめなければならないということである。三つの可能性がある。

第一は、国家訳聖書を「聖書朗読」と「説教個所の朗読」との両方に使用することである。

第二は、新しい翻訳の大型聖書を講壇聖書として使用することである。新しい翻訳の聖書は、昔の国家訳聖書のかわりに説教壇に置かれるだけの価値がある。

第三は、説教壇の上の「聖書台」を木材ないし別の材料でこしらえることである。そうすれば、あのどっしりした講壇聖書を説教壇の上に置く古い制度そのものを、根本的に廃止できる。

最良の選択は、おそらく第三の可能性である。

(原注)

[a] J. R. Tanis, Dutch calvinistic Pietism in the Middle Colonies. A Study in the life and Theology of Theodorus Jacobus Frelinghuysen, 's-Gravenhage 1967.

【出典】

A. A. van Ruler, Verzameld Werk Deel 2.