神学における人間的なるもの(1966年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

「神学における人間的なるもの」(Menselijkheid in de theologie)というこの主題は、自分で考えたものではなく、本日の主催者から与えられたものである。しかし、私はこの仕事を確かに引き受けた。ただ、私にも少し自由をいただきたい。前書きの中に二つの方向を示しておくことにする。その一つは「話題を狭める方向」であり、もう一つは「話題を広げる方向」である。この二つの方向で主題を切り分けることにする。

話題を狭める方向で話すのは人間的なるもの(menselijkheid)に関することである。話題を広げる方向で話すのは神学(theologie)に関することである。人間的なるものと神学との関係は制限されていると私は考える。人間的なるものは神学において全く意味がないわけではない。しかし、絶対的で決定的な意味があるわけではない。人間的なるものは人間的なるもの以上のものではない。かろうじて我々に求められているのは「人間的なるもの、万歳!」と叫ぶことくらいである。

私はこのことを、人間存在は被造世界全体にとっての目的でも目標でもないという存在論的判断に基づいて申し上げている。人間的なるものは存在の巨星ではない。少なくとも我々自身が理解できる意味が獲得される前に、あらゆるものが必ず人間化され、人間的なるものにならなくてはならないわけではない。人間は最大で「被造物の要約」である。被造物を代表して言葉を述べるためのレジュメのようなものにすぎない。人間は、創造者なる神の御前で事実を述べる存在である。しかし、人間以外の存在(小さな石ころから天使に至るまで)も存在することが許されなければならないし、それらのものは自立した存在であることが許されなければならない。それぞれの存在がそれぞれに固有の意味を持っている。

それゆえ「人間的なるもの」は、なるほどひとつの視点ではある。しかしそれは純粋なものではないし、すべてでもない。確かにそれは存在感を主張するようになる。しかし私は個人的には「人間的なるもの」への近代的愛着や啓発活動のようなものからかけ離れたところにいるし、そのようなことをするつもりはない。このことは神学にも直接関係する。神学において「人間的なるもの」について問うことは興味深いことであり、重要なことでもある。しかし、だからといって我々は、それを問うことこそが神学における本来的で本質的な問いであるというようなことは(神の御前で)考えないでおこうではないか。これが冒頭で「話題を狭める方向」と申し上げた意味である。「人間的なるもの」という私に与えられた主題の射程距離には届いているはずである。

そして、本論には「話題を広げる方向」もある。それは今日の主題の「神学」という言葉に関することである。そういうことは考えないでいただきたいと願うことは、私は純粋に神学の家に住んでいるというようなことである。そのような家に長く住んでいられると思うな。あなたは幻影を見ている。神学は常にいずれにせよ教会と固く結ばれている。教会は人生の定期市ごとに建てられる独立したテントである。このテントの中で、他の所で味わうことができないことを味わう。私はそのテントの中で、特に伝道の仕事という小さく限られた持ち場を与えられた。それゆえ私は今日の主題のもとで「人間的なるものと神学者との関係」の問題だけを考えることはない。「人間的なるものと教会役員との関係」についても考える。

ついでに言えば、「神学者」と「教会役員」は必ずしも一致しない。神学を専門的に学んでいない教会役員がいる。それゆえ「信徒」(leek)という言葉には全く異なる二つの意味がある。教会役員との対比で語られる場合の「信徒」と、神学者との対比で語られる場合の「信徒」は別の意味である。長老(ouderling)は十分な意味で教会役員である。彼らは一般の教会員という意味の「信徒」とは区別される。しかし彼らは神学を専門に学んでいるわけではない。その意味では「信徒」である。

教会との連絡関係が無くなった神学は、いつも偏屈なものになる。それは限定された神学である。我々の場合は「キリスト教神学」である。それゆえ、今日の主題において我々が当然考えるのは、先ほどの続きの第三の関係としての「人間的なるものとキリスト者との関係」である。これはもはや、手袋なしでつかめるかわいい子猫ではありえない。「人間的なるもの」(menselijkheid)と「キリスト教的なるもの」(christelijkheid)が矛盾しているとは言えない。しかし、二つの間に深刻な分裂がある。

こういう私の話の広げ方は恣意的だろうか。尖鋭化しすぎだろうか。私はそうは思わない。むしろこれこそ本質的な問題である。ここに事柄の核心部分がある。神学者と教会役員とキリスト者。この三者はお互いをつい軽んじあう関係にある。だからこそ、三者の区別がさらに進んでしまう。それが正しいあり方だと思われている状態がもうずっと続いていることを我々は知っている。

さて、前書きはこれくらいにして本論に入ろう。しかし、この問題について私になしうることは大雑把な答えを出すことくらいである。

第一の答えは、神学における人間的なるものとは、何よりもまずパトスとエートスに関することである、というものである。それは我々神学者が「これは大事なことである」と自分が信じていることを人に推薦し、代弁するときの態度に関係する。この点で私自身は、自分の課題について熱くなることに対して抑え気味になりはじめる。なぜそうなるのかといえば、私は全力で次のことを強調したいと願っているからである。我々が取り組んでいる課題は、なんら特別なことではない。ごくありふれた人間的なことである。その我々の恒久的な善を実現していこうではないか。このように私は言いたい。

我々神学者には、自分の教科だけが特別の方法を持っているなどと気取ったことを語りうる根拠はどこにもない。そのような言い草はまるで我々が特殊な認識をもち、きわめて特殊な源泉資料を保有する神秘と謎に満ち満ちた機関であり、その我々の神学的認識には全く固有の研究対象があるかのようだ。しかし、そのようなものはどこにもない!

しかし、実際にそういうことはしばしば暗示される。そのようなことに神学の力を見出し、その復興を待望することが過去数十年の間に実際に起こった。そのことを有名なタイトルの神学冊子シリーズまでもやらかした。そのタイトルは『今日の神学的実存』(theologische Existenz heute)である。

私は真正面から次のことを主張したい。ひたすら平凡であれ。ただの愚者になれ。我々神学者がしていることは何か。水晶玉占いでも奇術でもないだろう。我々の教科にも我々のすることにも謎の要素は皆無である。我々はごく平凡な人間的なことをなしうるのみである。

(続く)

【出典】
A. A. van Ruler, Verwachting en voltooiing, Uitgeverij G. F. Callenbach B. V., Nijkerk, 1978, p. 182-192.
A. A. van Ruler, Verzameld Werk Deel 1, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, 2007, p. 329-340.