我々は神なしでありうるか(1966年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

「神に煩わされていた頃の俺たちは本当に貧乏だった。でも、化学肥料を手に入れてからの俺たちはなかなかいいぜ」。これはドレンテの農家の方から実際に聞いた言葉である。宇宙飛行士が全宇宙を見た。しかし、宇宙には天国のようなものも神も見当たらなかった。自然科学はこれ以上神などが介入する必要がある現象はどこにも存在しないと説明しながら発展していくに違いない。煩わしくて押しつけがましい力に支えてもらわなければ生きられもしないような人生は、人間の価値を下げることにもなる。死んだ後にどうなるかだなんて、そんなことはずっと先に知ればよい。今の我々は地上の人生と明日の暮らしで精一杯である。
このようなことを深く考え抜いた上で、特に神学者たち(の中の進歩的でありたい人たち)がひとつの標語を掲げて人々に呼びかけた。「神は死にました。我々人間はあたかも神なき者であるかのように生きていかなくてはなりません。」

私の心に全く無邪気に沸き上がる第一の問いは、もし神が死んだのなら、そもそもどうして事物が存在するのだろうかということである。もしこの世界の事物が、底抜けに自由な創造者の力強い御手のうちに置かれていないなら(なぜなら創造者は存在しないのだから)、我々はちっとも安心できないのではないだろうか。どうするのか。自分で自分を支えるのか。偶然に委ねるのか。運命に委ねるのか。支えなど不要なのか。すべては可能性として成り立ちうる。しかし、これらの選択肢にはかなり差がある。我々は自分の態度を決定しなくてはならない。どれかを選ばなくてはならない。創造者の自由なる力(そして神の善き力!)にすっかり身を委ねて安心することができるというのは、とにかく魅力的な思想ではある。そして、もしこの思想を我々が完全に除外してしまうなら、我々が事物を知覚することの価値が失われてしまう。

私の心に沸き上がる第二の問いは、もし神が死んだのなら、真実や善はいかにして可能になるのかということである。人間のいかなる言語も、いかなる行為も創造者の真実や善にあずかることがなく、分けてもらうこともないのであれば(なぜなら創造者は存在しないわけだから)、我々の言葉や行為が真実であったり善であったりすることはありえないのではないだろうか。それ自体で真実であったり、それ自体で善であったりすることが、そもそも存在するだろうか。そのような絶対的で不動で不屈の真実なり善なりがそもそも存在するだろうか。神の恵みはもはや存在しないのか。このことについて私は、もうひとつの側面から考え直さなくてはならない。もし真実も善ももはや存在しないなら、我々の言葉や行いは場当たり的で無謀なものでしかありえないのではないだろうか。絶対主義と虚無主義は対極の位置にある。両者を区別しなければならない。そして我々は選ばねばならないだろう。もし神がいないのなら、すべては古い状態にとどまりはしない。もし神が本当に死んだのであれば、すべては混乱状態になる。

私の第三の問いは、「我々は神なしでいられる」という思想ごときで人は簡単に惑わされないのではないかということである。我々は、その程度の話よりもっと進歩的で危なっかしいことを考えているのではないだろうか。「神は死にました」という話を聞くことで、少しくらい苦しみを感じる人がいるだろうか。ニーチェは恐怖心をわずらった。精神を病んだ。隣人との付き合いが苦痛になった。市民としての生活ができなくなった。ニーチェが気づいたのは、神の位置に別の何かが置かれなければならないということだった。しかし、人間はその位置に堪ええない。人間を超越した存在としての「超人」が到来しなければならないことに気づいた。そしてナチスはその国家社会主義において、ニーチェのこの「超人」思想を具現化した。もはや創造者が存在しないのなら、我々は他の何らかの被造物を神の位置に置かざるをえなくなる。それとも我々は、全被造物の虚無化というようなトータルな絶滅の道へと突き進んで行くべきだろうか。すべては我々の考え方次第である。

第四の問いは、もし私が神なしに自立しなければならないのであれば、私はだれに愛されているのだろうかということである。宇宙に心があるのか。それとも、すべての存在は愛なしに存在しているのか。愛は、人と人との間の愛という意味で、人間の問題に限定されるものなのか。私は堕落した人類の一員であるゆえに、もはや愛される対象でなくなったのだろうか。私はせいぜい自分の長所に従うことができるだけか。我々にまだ愛があるか。それは真の愛か。アガペーか。エロースも残っているか。我々はこのようなことをうまく実現しなくてはならない。もし我々が神の愛に生きることができないなら(なぜなら創造者はもはや存在しないのだから)、愛は正反対の方向を向く。我々が「福音」から「神」を差し引くと、我々に「愛」は残らない。全く別の何かを持っている!

第五の問いは、人間としての尊厳にかかわる。人間の本質は責任を負うことにある。しかし、もはや神はいないのであれば、我々は神以外のだれに対して責任を負うのだろうか。それとも、たまにはだれかに対して、または何かに対して責任を負わないときが我々にあってもよいのだろうか。我々は自分ひとりだけで何かについての(voor)責任を負うのだろうか。あるいは、もっと性急に「すべてのことについて」責任を負うのだろうか。そうなると我々は全世界をひとりで背負うアトラスのようになる。まるで自分が巨人か英雄でもあるかのような感情を抱きながら毎日過ごすようになる。幼子のような無邪気さは無くなる。あなたの人生は、苦虫をかみつぶしたようなクソ真面目なものになる。「○○に対する(aan)責任」と「○○についての(voor)責任」を混同してしまうことが、現代のキリスト教とヒューマニズムとの親しい協力関係を途絶えさせている原因であると私は考えている。

最後の問いである。もし神がいないのなら、それでも我々は罪人であると言えるのか、ということである。たとえ神がいないとしても、人は自分がいかに罪深いかについての申し開きをしなくてはならないのだろうか。人がかつて罪を犯したかもしれないことについて、我々が責任をとらなくてはならないのか。しかも、そこにたどり着く前にすべての人が自由の磁場の前に立たなくてはならないのか。その自由は創造者の自由でもあり、被造物の自由意志でもある。それは、すべての人を魅了し、磁石のように引き寄せる力を持つ自由である。今はもはや神はいないのに、それでも我々はそこに立たねばならないのだろうか。もし神がいないなら罪も存在しないのではないだろうか。そのとき悪はもはや罪ではないのではないか。しかし、悪は存在してもよいのか。「悪は我々にとって必要な定めである」などと言わなくてはならないような人間の状況は、なんと悲劇的だろう。そのようなことを言わなければならない場合は、激しい悲壮感が急流のように我々の時代に押し寄せてくる。もし人が神(創造者にして救済者)を失ってしまうときはそうなることが避けられないと私は考える。悲劇の夜にすべてが終わる。今の我々になしうる最大のことは、我々が抱いている絶望感を、今夜、英雄的に絶叫することくらいである。

【出典】

A. A. van Ruler, Kunnen we zonder God? (1966), Verzameld Werk deel 3 (2009). p. 78-81.