礼拝と哲学(1963年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

日曜日の朝に教会に通う人と、家の中で座って考える哲学者。かかわっている問題は、どちらも同じである。自分は何者か、人間の存在は何か、世界の存在は何か、万物を支える土台は何か、神とは何者か。

しかし、かかわる方法が異なる。哲学者は家の中に座ったままである。かろうじて体はあるが、考えているだけである。

教会に通う人も、もちろん考える。多くのことを考える。しかし彼らは立ち上がる。ドアの外に出る。通りを歩く。教会の中に入る。そこで立つ。座る。考える。祈る。聴く。歌う。献げる。礼典にあずかる。

教会とは何か。芝居小屋か。スポーツジムか。大学か。それらすべてであり、それ以上のものが教会である。いずれにせよ、教会に通う人がするのは考えることだけではない。体で、物事の本質の全体性にかかわる。

通りを歩けば他の人に出会う。その中に教会に通う人たちもいる。自分ひとりで教会に行く場合もあるが、そうでない場合もある。家族で行くこともある。そして教会に数えきれないほど大勢の人がいる。

教会は楽しいか。気心の知れた仲間か。互いをよく知り合っているか。これらの問いすべてに肯定的に応えられるなら、最も素晴らしいことではある。しかし、それは重要な問題ではない。重要な問題は「体の頭」の問題である。キリストにおける救いが人と人を結ぶ。それが「聖徒の交わり」である。その交わりの中にひとりひとりが受け容れられる。

哲学者にそのような認識はない。そもそも彼らは自分の家族の姿をどれほど見ているだろうか。いずれにせよ、思索するという過酷な労働のために沈黙と孤独が必要である。最大限で特定の友人との交際があるだけである。しかも、ほとんどが師弟関係の形をとる。たまには気心の知れた仲間が来る。しかし、賛美する聖徒の交わり、礼拝する神の民というようなものは、彼らの地平のどこにも見当たらない。

彼らは満足するのが早すぎる。子どもの両手はすぐにいっぱいになる。哲学者が求めるのは答えである。考えるべき多くの問題がある。難解で深刻な問題ばかりである。理性の光の輝きを見たときは、言葉にならない喜びがある。しかし、現実は変わらない。すべての合理的な熟考の結末は「事物はどのように存在するかを我々は知っている」という諦念である。

考えるべき問題の答えを求める場であるという点は、礼拝も同じである。説教の中でそういう問題が徹底的に取り上げられることが望ましい。

しかし、礼拝において重要なことは答え(oplossing)だけではない。重要なことは救い(verlossing)である。現実が救われることが重要である。教会は、人間と世界と共に再び方向を変えることが求められる場所である。それは諦念ではない。「事物はどのように生成するかを我々は知っている」という展望を意味する。

万物を支える土台と存在の関係については、哲学においてよりも礼拝においてのほうが緊密である。哲学者は内気な若者である。異性を直視できない。躊躇しながら万物の土台に思想的接近を図る。

教会に通う人は恋人である。万物の土台とつき合う。神とつき合う。婚約する。結婚する。万物の土台に近寄るだけではない。人間が神を抱擁することが礼拝の本質である。

恋人たちはどこかしら愚かである。外部の人には全く意味不明の言葉を語る。教会が神を語る姿はそのようなものである。それはポエムでもあろうし、記号でもあるだろう。しかし、たとえそうであっても、教会は、終始一貫、徹頭徹尾、「人になられた」神の言葉を語る。

たまには大学の教授がたも教会に来る。教授会のメンバーも来る。しかし、彼らは全く別の言語に変換する。ポエムでない厳密な概念を要求する。教会は「人になられた」神の言葉を語る。そのことを先生がたが知ろうとしないので、教会に通う学生はいなくなった。礼拝は原始的で時代遅れに見えるようだ。彼らは、教義学も信仰告白も礼拝も、現代のサイエンスに合致させることを要求する。

おそらく彼らは、哲学は礼拝よりも学問的だと思い込んでいる。哲学者が「人になられた」神の言葉を語ることはない。

彼らは神を抽象的に語る。そのほうが有利だからか。それは錯覚ではないだろうか。神を人間の寸法に合わせて語っているだけではないだろうか。すべての哲学的意識が万物の土台に至ると錯覚していないだろうか。そのような考えはすべての命を犠牲にしていないだろうか。人間が被造物なしに創造者のもとにたどり着けるのであれば、(被造物としての)人間に何が残るのか。

最後にひとこと。哲学者はたしかに多くのことをよく考えている。全世界の現実と人間存在の全体性を考えている。それは教会が「一般啓示」と呼んできたことでもある。

しかし、哲学者はイスラエル民族は何か、イエス・キリストのペルソナは何かということまであまり深く考えない。そういうことはほとんどしない。そのあたりが哲学の視野の狭さである。

しかし、イスラエルもイエスも現実である。まさに現実である!イスラエルにも、イエスにも、他のあらゆる存在に先んじる次元がある。

そういう意味では、礼拝のほうが哲学よりもすべて揃っている。礼拝の中心に人間と世界の全体的な認識がある。礼拝においては全体と個が関係づけられている。

私が言いたいのは、哲学的意識は高い価値ある財産ではあるが、礼拝なしには人間らしさが死んでしまう、ということである。

(1963年11月30日、ユトレヒト新聞)