プロパガンダと無私(1960年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

19世紀以来議論されてきた「伝道の正当性」(rechtmatigheid van de zending)の問題。

なぜ我々がアジアやアフリカの人々の宗教的な確信を妨害しなければならないのか。それが彼らに平安をもたらすことになるのか。我々の信じているキリスト教がそれほど良いものなのか。何が真理かを語っているのは誰なのか。

教会は世の中で積極的に活動する。そのような存在であるのがふさわしい。教会の存在理由は信者獲得(zieltjes te winnen)ではない。教会はひたすらキリストの御意志に従って無私の奉仕を行うために存在する。その場合も教会は人間と社会を悩ませるべきではない。我々は人道的支援のために人間的な共感をもって船に乗ればよい。涙の叫びをあげて援助を求める人々のもとに(意識的に)赴くために。

教会はこれらの理由を挙げて、周囲の人々と快適に過ごそうとし、魅力的であろうとした。さらに教会は、このようなやり方で「我々は結局のところ宗教的プロパガンダを行っているだけではないか」という、自分自身の内心にもある現代人としての躊躇を克服しようとした。

しかし、「無私の奉仕」を理由にして「プロパガンダ」を免れることは可能だろうか。私が第一に申し上げたいのは、このやり方には甚だしい詐欺(ペテン)と自己欺瞞が潜んでいるということである。「私はフェアに生きている」と感じているところに自己欺瞞がある。「私は世の中で無私の奉仕をしている」と感じているところに詐欺(ペテン)がある。彼らに悪意などは全くない。悪意がないからこそ詐欺(ペテン)である。人の目を欺くやり方である。

救いのためのプロパガンダ(propaganda voor de verlossing)は、教会が取り組みうる最も無私の奉仕である。教会の使命は、援助し、共感することだけではない。人を罪から救い出し、神の民を獲得することにもあるからである。それが真の信者獲得(echt zieltje winnen)である。

(部分訳)