神の選び(1958年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

問題の核心はここだ。私はなぜ、一個人として、今日、キリストの救いを分かち合う者になるのか。そして答えはこれだ。信仰(信仰も分かち合うものである)とは神の賜物なのだ。信仰は私に与えられるものだ。これこそが(事実上これだけが!)神の選びの教理である。再生の教理の核心は、いかにして(≠ なぜ)私はこの分かち合いにあずかる者になるのかという問題である。予定論も再生論も聖霊論の課題である。キリスト論では解くことができない。選びはイエス・キリストにおいて行われた。キリストは選ばれた人間であると共に、選ぶ神でもある。キリストにおいて我々は選ばれた。このようにキリストは我々の選びの鏡(偉大な模範であり偉大な手段)ではある。しかし、事柄の核心は、今、この私の内に生起することは何なのかという問題である。

信仰とは神の賜物である。これが意味することは、この神が、キリストにおけるイスラエルの神が、恵みの神が人に信仰を与えてくださるということである。この賜物に友情と愛がこめられている。他者なる方がこれを人に与えてくださる。神の選びは、神の愛という枠の中でのみ理解しうることである。それは「選ぶ神の愛」(verkiezende liefde van God)である。神が愛のまなざしを私に向けてくださる。その際問題にされるべきことは、なぜある人は信仰に至り、他の人は信仰に至らないのかということだけではない。教会と世界の違いや区別、あるいは教会の外にいる選ばれた者たち(伝道ないし宣教の課題)と教会の内にいる堕落した者たちの違いや区別だけが問題にされるべきではない。

ともかく我々はそのような外面的な事実を説明することだけで済ませることはできない。私の信仰の原因を説明することが問題なのでもない。問うべきことはもっと内面的な事柄である。神が、御自身のみわざにおいて、キリストを宣べ伝える説教において、私の信仰を呼び起こしてくださる。神のみわざは、私のところへやってくる。それによって私が圧倒される。神の選びの教理とは、私の信仰に関する事実についての知的な説明ではなく、それについての描写である。


そのように信仰を理解することは信仰にとっても本質的である。もし信仰が自分のわざや業績として理解されるならば、それはもはや信仰ではない。なぜなら信仰は神における完全な裁きであり、すべてを神に負っているものだからである。

以上のすべては、人間は罪人であるということ、すなわち、人間は信仰など欲していないということにかかっている。罪とは十分な意味で生命的な活動である。人間は棒きれでも丸太でもない。病んだ者でも弱い者でもない。しかし、人間は神に反抗したがる。その人間が神と共に歩みたいと願うようになる。そのことが人間の身に起こらなければならない。人間は内側からつくりかえられ、粉々に砕かれなければならない。それが内的恩恵(gratia interna)の教理の核心である。そうでないなら、すべての人は堕落したままである。

しかしそれは次のことを意味する。意志は置き換えられる。意志に方向転換が起こる。意志が自由にされる。それによって人間は善きことを、すなわち神の御心にかなうことを行いたいと欲するようになる。そのとき人間はなんら受動的ではない。選ぶ神の愛によって、神に反抗する罪人としての人間が神と共に歩むことを欲するようになる。このように、神の選びは意志を自由にし、救出する。しかし、それを人に与えるのは神である!人間はいかなる欲求もなしに永遠の祝福にあずかることができるのだ!

このことが神と人間との格闘の中で生起する。神の選びが、時間の中で・人生の中で・歴史の中で実行される。

我々は予定(predestinatie)や運命(voorbeschikking)や永遠の聖定(eeuwig raadbesluit)という概念を用いて語る。これらは避けることのできない概念である。ただし、これらは永遠と時間の関係という図式(この場合の永遠とは「時間以前」という意味である)の中ではなく、神と人間の関係という図式の中で理解されるべきである。神は人間の先手を打ってくださる。神は人間を抱きしめ、包みこみ、人間を越えて愛してくださる。人間の内面に触れてくださり、それを人間に与えてくださる。人間を越えて働いてくださる神の質的な優位性が、永遠の決定という(哲学的な)概念の中で表現されている。

それを神が私に与えてくださる。そのことが生起するのは「私の人生の中で」だけではない。問題の核心は純粋な内面化ではない。それを神が私に与えてくださるのは「歴史の中で」でもある。歴史の中に説教がある。福音がある。約束・戒め・勧告・警告がある。キリストがおられる。キリストにおいて神が私を召し、選び、御計画のうちに置いてくださる。

私が福音のもとに生まれ、その福音がこの私に届けられたこと、すなわち召命それ自体が、すでに神の選びである(「福音が時間の中で私に届けられたので私は永遠のうちに選ばれていた」と述べているのではない。「福音が私に届けられるということが神の選びであり、そのことにおいて神が選びのみわざを実行する」と述べている)。それは神の民の選びであり、教会の選びである。神の選びは恵みの契約という土台の上で実行される。

そうだ。神がキリストを与えてくださり、キリストにおいて恵みと赦しを与えてくださったことこそが、すなわち、神の完全な自己啓示こそが、選ぶ神の愛のみわざであり、選びの事実である。神が我々を探し求めてくださるのであって、我々が神を探し求めるのではない。

そこにおいても純粋な恵みの方法がとられる。神は御自身をそっくりそのまま我々に与えてくださる。そのとき、我々の側の価値や功績は一切問われない。

そうだ。神は、価値もなければ功績もない我々を探し求めてくださる。堕落している者、弱い者、取るに足らない者、軽んじられている者、卑しい者が、福音において優先的に選ばれる。

(外的召命の)歴史性において、私は神の選びを探し求めなければならず、神と出会わなければならない。

しかし、神の選びを私の側で探し求めることや神と出会うことも、確かに生起しなければならない。外的召命は内面化されなければならない。召命とはそういうものである。私がなすべきことは内側から扉を開けることである。そのとき私の心の中で聖霊が証言してくださる。この聖霊の内的証明によって、私は自分が永遠に選ばれている者であることを信頼する。それを私自身が目の当たりにする!私がそれを知る!私が徹底的な透明性と純粋性の中に立つ!無媒介的に!絶対的に!選ばれるべき理由もないのに!そっくりそのまま!突然!逆戻りしない仕方で!

これこそが永遠の選びの確かさの教理の核心である。そのとき私は、神が私をご覧になって私にお求めになるのと同じことを、私自身を見て私自身に求める。この確かさは体験と善き業とによって増し加わる(≠それに依拠する)。こうして我々は、神と共に生きる清い生活を通して、自分の召命と選びをしっかり結びつける。

このような姿勢においてのみ、我々は神の選びの真理について考えたり語ったりすることができるし、許される。神の選びは高くて深い神秘である。福音のすべてが、そしてすべての存在(!!)が、高くて深い神秘であるのと同じように。我々はこの教理を、神を畏れ、慎重に、すなわち正しい姿勢で取り扱わなければならない!

正しい姿勢とは、キリストと福音において我々をお選びになる神との出会いと関係の中に身を置くことである。永遠と時間を知的に区別してみせるような傍観者然とした姿勢は、この教理を考えたり語ったりする際にふさわしい姿勢ではない。しかし、この神との格闘という形において、私は恵み豊かな人生と自由な力を持っておられる神とを賛美したいと欲する(または欲さない)のだろうか。この格闘は、神に対する憎悪や呪いや冒瀆という形をとることがありうる。しかし、我々はそこにとどまり続けることはできない。我々は神の御手のうちに握られ続ける。我々は内的な明白さと確かさに至るまで、陰府にくだる準備をするまで、神を賛美することを貫徹し、完遂しなければならない。

予定(predestinatie)、これこそが問題の中心であり核心である。それは神と人間の間にある予定である。人間は直接、神の御手のうちにある。全身が神の上に放り投げられている。この深みに生きる者として、我々は予定の問題に取り組みながら生きていかねばならない。

もとより人間は、予定については、ただ信仰においてのみ、そして清い生活のなかでのみ語ることができる。人間が神賛美を貫徹するとか明白さを与えられるというようなことは、すべて背後に引き下がった事柄である。神の恵みとして私に与えられる信仰の確かさのうちに立つとき、万事は神へと帰される。選ばれているかどうかをまず知的に知ろうとし、それから信じるというのではなく、その逆である。むしろ、神の選びの教理は完全無欠な固形食である。

神の選びの教理の意義は、この教理こそが人間存在についての最も深い洞察であるということにある。我々はこの教理の中で、存在するすべてのものを徹底的に最後まで考え抜くことができる。我々の存在は、神の裁きの中にあり、神のみわざの中にあり、神の御計画の中にある。神が我々について、我々の意志することと共に、何かをお考えになり、我々のために何かをなしてくださる。人間の本質は、神からしか理解できない。

(「私の内に清い心を創造してください」 と)祈る人は、予定論者である。これは実存の究極形態を言い表わす祈りである。この祈りはすべてのことに当てはまる。救いにだけ当てはまるのではなく、創造にも誕生にも当てはまる。私に因らなくても私は存在しているということには、神の自由な力が同じように働いている(なぜなら私は自分で自分を世界の中に創造したわけではないからだ!)。しかしそのこと(あるものが存在すること!私自身が存在すること!)を、私も自分で求めなければならない。それこそが心の平安を得るための唯一の方法である。

この神の自由な力は、すべての存在の土台でもあり、源泉でもあり、根でもある。すべてのものがその上で身を震わせながら立っている。それゆえ、自由こそが事物の本質である。自由の力に満ちた神の御心の光が輝いていることを見ないならば、我々は不条理の夜を過ごすばかりである。

選びとは、場所の選びであり、出来事の選びであり、性別の選びであり、国の選びであり、サクラメントの選びであり、職制の選びであり、人格の選びである。

それゆえ、予定論は桁外れに大きな喜びへと導いてくれる。神が私を欲してくださっていること、永遠から永遠に至るまでこの私を神が欲してくださっているということは、実にファンタジックなことであり、そのことを考えると、我々の心は喜びで張り裂けんばかりである。我々はただひたすら驚くばかりの人生を送ることができる。

ただし、この喜びは謙遜という要素と一対になっている。私は何者なのか。私は何を成し遂げることができるのか。私はどうしたら自分を救うことができるのか。私が存在していること、私が神の御前に存在していることには苦労する価値があるということを示すことだろうか。いや、しかし、神が私を欲してくださっていたのだ!私には罪があるにもかかわらず!これこそが最も深い謙遜である。

それゆえ、神の選びの事実は極めて根本的な確かさを生み出す。私は永遠から永遠に至るまで、神の御前に存在することができる!我々を神の御前から取り去ったり取り除いたりするものは何も存在しない!ただし、「永遠の選びの確かさ」と「永遠の祝福の確かさ」とは区別しておこう。後者は前者ゆえに生じる。前者は聖霊の内的証言ゆえに生じる。

神の選びは清いことへと導いてもくれる。神は我々をあるものへと選んでくださる!信仰へと、礼拝へと、清いことへと、神賛美へと、善きわざへと!人間は神の選びによってスイッチを切られるのではなく、むしろスイッチを入れられる。神の選びが我々をはげしく突き動かす。我々は神と共に働く者(パートナー)の位置に据えられるのであり、それゆえ我々は人生と世界を自分の手でつかむ。「礼拝する者へと選ばれること」と「救われる者へと選ばれること」を区別することは全く無意味である。なぜなら、我々の救いとは(神の栄光を賛美する)礼拝への救いでもあるからである。そして、どの礼拝も、救いを分かち合うことなしに行われることはありえないからである。

[未取扱]

神の遺棄についてはまだ何も語っていない。神の選びというポジティヴな側面こそが予定論の本来的な要素である。神の遺棄というネガティヴな側面は、陰の要素に過ぎない。

我々にとって、「今日」という時の永遠の起源や永遠の出発点は他の人々の目には隠されている。それらが見えるとしたら、我々自身の目以外にはない。我々は心の中に・意識の中に・良心の中に永遠から永遠に至るまで自分は何者であるかを知ることができる器官をもっている。それは他人の目には見えない。

我々は人間を尊重しなければならないが、同時に神の奥義を尊重しなければならない。確かに神は人間と共に働いてくださっている。しかしその道筋は人間自身が知っている。

いずれにせよ、神の道を歩む我々すべての者たちは召されなければならない。召命とは、神の選び(と遺棄)が現実化される道筋である。

神によって行われる人間の遺棄は、神が遺棄のみわざを行われるという道筋において、人間によって生起することである。遺棄のみわざにおいて、恵みの神は能動的であられる。人の心を硬くすること(obduratio cordis)、その人の心の目を遮ること(excaecatio mentis)は神のみわざである。我々は、ある人を遺棄された者のうちに数えること(Iudicium caritatis(隣人)愛に基づく裁き)において性急であってはならない!

召命は開かれた状況を生み出す。召命においてあらゆることが生起する。召命において生起する事柄は、人生のすべてにわたって引き伸ばされる。

万物の復興(αποκαταστασις παντων)ではない。それは人の道に反する教えである。永遠性に強調を置くことは、時間の中で営まれる人生に強調を置くことである。時間の中で営まれる人生において、永遠の神的な意味の決定がなされる。

遺棄される者は、自分の遺棄を認識することができるだろうか。それは今、認識できるのか。それとも陰府においてなのか。

神の遺棄は、神の愛とどのように調和するのだろうか。

我々は「信仰とは神の賜物である」という宗教思想を世界理論にすることができるだろうか。

神の威光は、遺棄のみわざから輝いている!

遺棄の教理は、この世の悪の問題を非常に深く考え抜いたものである。

【出典】

A. A. van Ruler, Van schepping tot Koningkrijk, Nederlands Dagblad, Barneveld, 2008, 97-103.

A. A. van Ruler, Verzameld Werk Deel 4A, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, 2011, p. 766-772.