キリスト教ヨーロッパの神秘思想(リュースブルク)(1957年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

聖書と教会は神秘主義に独特かつ特徴的な印を刻んできた。聖書と教会の中で神秘主義の独特のあり方が多くの仕方で語られなければならない。この講義もそのことに専念しなければならない。聖書と教会の神秘主義における核心は、創造者と被造物の区別を維持することにある。我々の人生の目的は大海の中の一滴のしずくのように神の内に吸収されてしまうことではなく、我々が神の御顔の前に存在し、神が我々の前に存在してくださることにある。そこで重要なことは神の高さだけではない。被造物の「自立性」も重要である。神秘において人間性を維持することが重要である。

このキリスト教的神秘思想はとりわけヨーロッパで開花した。ヨーロッパ精神は一貫してこの神秘主義と共に形成され、決定づけられた。だからこの講義のタイトルは「キリスト教ヨーロッパの神秘思想」である。我々が自分自身をヨーロッパ人として正しく理解するために知らねばならないのは、神秘主義のこのキリスト教的修正である。それは幾通りもの仕方で我々の魂を形づくっている。

我々が取り扱うべきキリスト教ヨーロッパの神秘思想には多くの模範がある。オリゲネス、アウグスティヌス、スコトゥス・エリゲナ、クレルヴォーのベルナルドゥス、ボナヴェントゥラ、エックハルト、タウラー、スーソ、ヴォエティウス、テルステーゲン、パスカル、キルケゴール、など。彼らはそれぞれ非常に大きな違いがある。全部説明することは無理であり、誰かを選ばなければならない。我々が扱うのはリュースブルクだけにしておく。彼はキリスト教的ヨーロッパの神秘思想の最良の代表者の一人である。

ヤン・ファン・リュースブルクの生涯について手短にお話ししておく。彼の生涯は1293年から1381年まで、生まれたのはブリュッセル南部、東方に伸びるゾニーエンボスに隣接するリュースブルク村である。彼の両親や家庭環境については何も知られていない。1304年、彼は母とその村から逃げ出し(父については知らされていない)、ブリュッセルの一人の叔父の家に行った。彼がそのようなことをした理由は我々には知らされていない。しかしおそらく彼には勉強したいという激しい衝動があった(リュースブルクは驚くべき知性の持ち主でもあった)。彼と母との関係には独特のものがあった。母とは一度も再会していない。まだブリュッセルに住んでいて、まだ語り合うこともできたその時すら会っていない。ところが、母の死後、彼は彼女のことをしばしば公にするようになった。彼は明らかに、母の仕事に大きく深い関心を持っていた。1304年から1317年まで、彼はその訓練を母から受けた。そこで何があったかは知らされていない。そのことにかかわる闘いがあったのか、それとも彼が学んだラテン語は(パリかケルンの)大学で学んだものではなかったのか。

リュースブルクは1317年から1343年まで、一人の司教座聖堂参事会員(kanunnik)の代理を務めた。このような地味なポストに就いて、ブリュッセルの聖フーデレ教会の聖歌隊奉仕、またおそらく説教、教理問答(カテキズム)、牧会(魂の配慮)などの奉仕を行った。この時期にはすでに彼の神秘主義的作品が著されていた。主著『霊的婚姻の美』(De chierheit der gheestlicker brulocht)も、この時期の作品である。彼の主著には全く一貫して神秘主義が光を放っている。ブリュッセルには教会と社会との協力関係がなく、覚醒された国民とその政治的・社会的な霊的生活の見張り役になるべきものが存在しなかった。彼は国民に向き合い、国民のために書物を著した。それは霊的な食べ物を求めている人々の必要を満たすためであり、また異端と闘うためであった。それゆえ彼は、国民の言葉で、オランダ語で、とりわけブラーバント地方の方言で書物を書いた。ハデヴェイクと同じような宮廷調の言葉づかいは少しもなく、むしろ一般国民に通じる表現形式であった。

リュースブルクは、これらの神秘主義の書物において言論と思想の力が至りうる空前の高みへと駆け登った。最初のオランダ語著述家としてのリュースブルクは、同時にヨーロッパと人類の文学におけるひとつの絶頂点である。

1343年には、彼の影響によって深い生へと至った二人の友人たちと共に住処を変えた。彼はゾニーエンボスで隠遁した。そこで、全く自分自身において、いかなるかかわりも持たず、神のみわざ(opus dei)、すなわち聖歌隊奉仕、神讃美を行うためであった。彼はそれを1349年までもうひとりの別の友人と共に続けた。この時期に彼はあらゆる周囲の人々から修道院の形態を選ぶようにしつこくせがまれた。彼は聖アウグスティヌス修道会の正規の参事会員に叙階された。このフルーエネンダール修道院が、リュースブルクを一般的に有名にした。ヨーロッパ全体から訪問客が訪れた。とりわけ彼はヘールト・フローテにも影響を与えた。

フローテの神秘思想は、近代的信仰(devotio moderna)、共同生活兄弟団のひとつの背景である。

どうして今、リュースブルクがキリスト教ヨーロッパ神秘思想の最良の模範のひとりなのだろうか。それはとりわけ彼が、非常に多くの要素をひとつの最も偉大な綜合(synthese)において調和的に結び合わせたからである。彼は人気があり、教え方が上手で、国民に親しまれた。平凡なひとりの人は存在と自分自身との全き神秘としての神を体験する人間である。しかし、そこで永続的なひとつの非常に強靭な思索が貫き通されている。彼は物事の根底に達するまで休まない。神の存在(wezen van God)が重要であり、人間の魂の存在(wezen van de ziel)が重要であり、二つの存在の相互関係が重要である。彼は内面的なもの、主体的なもの、全く実存的で主観的なもの一切が個人の内面生活へと集中していくというゲルマン的特性を持っていた。しかし同時に、彼のたしかな背景として、現実の客観的で構造的な諸要素、すなわち神の三位一体性、キリストの形態、キリスト教から派生したキリスト教世界(corpus christianum)の形態を忘れないラテン的特性も持っていた。魂とはいわばキリストにおける神という葡萄棚に伸びた葡萄の木のようなものである。そのように語るとき、リュースブルクは存在論的なものと心理学的なものとを結び合わせている。一方において彼は(理性によって見出しうる)客観的存在を充分に問題にする。他方において彼は、生きるということ、人間存在の生の現実というものを充分に問題にする。それゆえ彼にとって理性と実存は対立せず、むしろ高潔な勝負において調和する。

そのとき、それはまた、次のような帰結をもたらす。彼は、神の存在や人間の魂の存在に満足することはない。しかし、時間の中で生きること、また三つ編み細工が内側や周囲に施されているお下げ髪のように神秘的に組み立てられた生にこそ、彼は満足する。時間は永遠の中で持ち運ばれる。リュースブルクは一方で、クレルヴォーのベルナルドゥスよりも豊かであった。ベルナルドゥスはとりわけ「実践的・キリスト論的」(praktisch-christologisch)であったが、リュースブルクは「思索的・三位一体論的」(speculatief-trinitarisch)であった。彼はまた他方で、エックハルトよりも豊かであった。エックハルトの論理的精神は、すべての彼岸性によって、神へと至る魂によって、神の唯一の存在へと至る神の三位一体性によって、合一へと至る神と人間との関係によって――そして必然的に――無へと至る存在によって激しく攻撃をしかけてくる。リュースブルクは論理(logos)の弦よりもっと多くの弦をかき鳴らす。エートスの弦、意志の弦、心情の弦、愛の弦、時間における実存の弦をかき鳴らす。リュースブルクが問題にしていたことを一言で表現するなら、「形而上学的実践」(metafysische praktijk)であった。全人類が、ここで今、神の永遠性、そして神の三位一体的存在の枠組みの中に存在している。

ヨーロッパ神秘主義における最も顕著なキリスト教的要素は、〔神の〕恩恵(genade)という要素である。ひとりの人間が神とのこの関係へと至るためには恩恵が与えられなければならない。リュースブルクは生涯をかけて、自然的方法に基づく神秘主義に抗して闘った。この方法において人間は、自分自身が至りうる自分の本質に基づいて、その人間がいずれにせよそのようなものであるところの自分自身から出て行ってしまうからである。それは自分自身において神的なものになることである。

もし人間が今や外的世界のイメージをすべて捨て去り、理性の自然的無為性の中でその人自身の存在を働かせようとするなら、そのときその人は自分自身において神的なものになっている。そこには汎神論的な何かがある。この姿勢においては、神における審判の要素がないからである。また、そこには道徳律廃棄論的な何かがある。外的世界とも隣人とも関わりを持たないからである。神の御心がそこに貫徹されているところの時間的生活の形成としての美徳の訓練が抜け落ちてしまう。人間が神的なものであるゆえに、彼の行うすべてが善行であるかのようになってしまう。この思想と闘うことにおいて、リュースブルクは非常に熱心であった。ひとは彼がこの見方をひとつの誘惑として感じていたという印象を受け取る。両者は非常に似たもの同士である。ところが彼は、この自然主義(naturalisme)を拒否することにおいて誠実である。それこそが彼自身甘受していた福音の戒めであり、聖書の戒めであり、キリスト教信仰の戒めである。そしてそれこそがこの恐るべき思想家にして、自分自身一人の子どもとして聖なるキリスト教の権威へと服従していた人間がのこした偉大な証しである。それは恩恵という事柄である。人間は謙遜さと慎み深さに留まらなければならない。我々は自分があたかも神秘的な力を持つ人間であるかのようなふりをしてはならない。また、こうも言いうる。事実、人間にとって神は他者である。そこには関係がある。しかし、関係はあっても溶けて混ざり合っているわけではない。その関係は自然的なものではなく、据えられなければならないものである。事実、神にとって人間は他者である。人間も存在しなければならない。だからこそ「愛」(これが典型的にキリスト教的な強調点である!)が問題になるのである。愛は神の側――神御自身がイニシアティブを持っておられる――と人間の側という二つの側へともたらされなければならない。そしてそこで人間は、神が御自身の愛においてこのわたしにも向き合ってくださるように、外的な何かにおいて自分自身に向き合わなければならない(それ以外は愛ではない)。

(続く)

【出典】

オランダ教会史講義、ユトレヒト大学神学部、1957年10月20日

A. A. van Ruler, Theologisch Werk Deel 6, Uitgeverij G. F. Callenbach B. V.. Nijkerk, 1973, p. 113-119.