相対的なことを真剣に(1956年)

A. A. ファン・ルーラー/関口 康訳

ある特定の見方や事実に基づくデータについてしょっちゅう耳にするのは、「それは分かる。しかし、それは相対的なことである」という物言いである。しかも、多くの場合、この言い方は「相対的なことなど真剣に考える必要はない」と言いたいがために用いられる。とりわけ道徳的・宗教的な確信を理由にして、現代人は以下の感覚を深く抱いている。この世のすべては相対的である。別のことは全く別である。多くの帰結がありうる。この領域と他の領域において確信を持つことは決してありえない。

「それが相対的なことだと分かると重要でなくなる」というこの論法に私は断固反対する。絶対的で完全なことだけが人間にとって根本的な意味を持ちうるかのようだ!絶対的で完全なことが分からないときは、我々は立ち去るのみであるかのようだ!

ともかく我々は少なくとも次のことを自問すべきである。本当に絶対的な何かが存在するだろうか。そのようなことが我々のあいだに存在したり、我々の手のうちに握られていたりしているだろうか。そもそも我々は「神は絶対的である」と語ることができるだろうか。「生ける神」については、聖書とキリスト教信仰が我々に教えるように考え、そのように語ることは辛うじて可能であると思われる。この方は生きてみわざを行われる神である。この方のすべてのみわざが問題解決をもたらす。いずれの解決においても難問が解かれ、イエスとノーが語られる。さらに、生ける神は、地上において、時間の中で、人間の行為によって生じる事柄に非常に深い関心を寄せてくださる。この地上的で時間的で人間的な事柄が、神によって創造された生のすべての相対性の中に神を巻き込む。神は我々との関係もしくは関連の中に身を置いてくださる。このことが神を真に関係的な(betrekking)存在にし、それゆえ相対的な(betrekkelijk)存在にさえするのではないだろうか。

被造現実は、いずれにせよ本質的に相対的である。被造現実は、神によってこの方の存在の外側へと、そして無から有へと呼び出された存在である。被造物とは、神との比較において本質的に相対的である事物を指す。被造的現実が相対的であることは、自由な力を持つ神御自身がお望みになったことであり、我々に与えられたことである。神によって創造された、地上的で人間的なるものの相対性は、永遠の神の御好意に基づいている。

それゆえ我々は絶対的なものだけを探求するほうが良いとは思わない。そのような態度には不敬虔な要素がある。それは神の自由な力を敬わない要素である。それは、生ける神がお望みになり、かつ、神がなされることとは異なる要素である。

そのようなことは、我々にだって分かっている!絶対性の探求は、それを空しく期待するだけではたぶん無理である。そこで人間は自分の被造性を超えたい(それはもはや定義不可能な何かである)と願う。もしかしたら我々は絶対性に参与しているかもしれない。認識において真理に参与し、道徳性においては善に参与し、芸術においては美に参与する。真・善・美は、それ自体で絶対的な要素を持っている。この件は慎重であるべきではあるが。

しかし、真・善・美はおそらく(神がお望みになる)被造物の諸形式以上の何ものでもない。いずれにせよ人間は、それらに「参与すること」以上に至ることは決してない。それが被造的現実の仲保性の本質である。真の絶対性を手にすることは我々人間には不可能である。

絶対性を追い求め続ける人は、非常に惨めな結末に至る。自分の人生を指先でつまんでいるような感覚や、本来の自分の姿をいつも忘れているというような感覚に襲われる。絶対性の太陽は、相対的な生の美しさと豊かさをいとも容易く焼き殺す!

福音が我々に教える処世術は、相対的なものを真剣にとらえることから始まる。それは神の御意志である。我々がそうすることを神は心から喜んでくださる。被造物の本質としての相対性には、被造物に特有の真剣さがある。

しかし、これだけではまだ不十分である。このこと自体に危険な要素もある。我々は相対的なことを真剣にとらえるだけではない。はっきりと相対的なものを愛し、感謝し、喜ぶべきである。

「すべては相対的である」と語ることにはユーモアの要素がある。それは「神の本質の外側に相対的な被造物が存在する」と語ることがユーモアに属するのと同様である。ここで我々は笑ってよい。陽気になってよい。その意味で、喜び楽しんでよい。

かつて我々はどのようにして「実際に絶対的な事物が存在する」と言い張っていたのだろうか。人生は真剣である以上に遊びである。福音によれば、遊びは真剣であるよりも高貴である。たとえば我々は「人生は単なる遊びに過ぎない」などとは決して語らない。人生とは愛の遊びである!

私はこの遊びを真剣にとらえることにおいて自分自身を受け容れる。多くの人間のひとりとして。私は自分自身を共同体の中に生きる人間としても受け容れる。そのときこそ、あらゆる歴史的な事柄、すなわち、あらゆる絶望的なことや偶然的であると思える事柄(我々が今のヨーロッパの中で、よりによってキリスト者であるということは偶然ではないのだろうか?)もまた、この福音主義的な処世術において、この真剣な愛の遊びの中に十分に吸収され、消化される。

偶然性や相対性を注意深く、畏れをもって扱いつつ、積極的に行為し、わざにつくことを、もし私が願うならば、それらは取るに足りないことでも重要でないことでもない。

出典 

Elseviers Weekblad, 16 juni 1956, p. 11.
A. A. van Ruler, Blij Zijn als Kinderen, een boek voor volwassenen, J. H. Kok B. V. Kampen, 1972.
A. A. van Ruler, Verzameld Werk Deel 1, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, 2007, p. 71-72.