真理は未だ已まず(1956年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

真理をどのように理解すべきかについて語るのは容易なことではない。伝統的な定義によると、真理とは「存在と意識の一致」である。現代人はこの定義に満足することができない。最近は、真理とは存在の非隠匿性(onverborgenheid)であるとか、真理とは存在の明白性(uitgesprokenheid)であるとか言う。後者の定義は、ローエン教授がしておられるように神との関係にまで言及されている場合には特別な興味をそそられるものになる。真理とは「神による、存在の明白性」(uitgesprokenheid- door- God van het zijn)である。神の言葉が真理である。神がお語りになること、それが真理である。

この問いに潜むスズメバチの巣の中にはなるべく手を差し込みたくない。私個人はこの問いをめぐる対話において共産主義者が果たした貢献に魅了され続けている。彼らの出発点は、真理とは物質的現実と同一であるという根本思想である。聖書によれば、真理とはいずれにせよ物質的現実と限りなく等しいものである。そのため物質的現実は疑いなく我々の真理の定義に取り込まれるべき要素である。可視的で可触的な世界の具体的な現実は聖書の思想の中で非常に重視されている。とはいえ、それは、我々が人生の最後の問いを思い巡らしているときには一瞬見落としてしまうかもしれないことでもある。

しかし、だからこそ私はこの彩り豊かな命題を主張したい。真理イコール物質的現実である。そして、このことと同時に語りうることは、真理は未だに汲み尽されていないということである。おそらくこの点は共産主義者たちの定義においてはほとんど見落とされている。真理とは何かという問いに対する貢献のゆえに、唯物論(マテリアリズム)は歴史に残されるべきである。すべての被造的現実には永続的な変化の余地がある。社会と文化における人間の行為は、この現実の中に介入するものであるだけではなく、それ自体が一つの事物でもある。歴史のプロセスこそが現実(werkelijkheid)である。現実とはすなわち歴史的なものであるということ(de werkelijkheid historisch is)を熟慮するときにのみ、真理とは何であるかという問いに答えることができる。

こうして我々はひとつながりの同一視に至る。真理とは真の現実である。真の現実とは生起した存在である。そして生起した存在とは十分な意味で神のみわざ(goddelijke daad)であり、神のみわざの輪舞である(その輪舞の中に人間の優美なわざが取り込まれる)。神のみわざは未だに完成していない。神は、御自身の世界と人の子たちを清算なさっていない。我々人間は息苦しいほどの関心と熱意をもってトライするのみである。時間を貫く人間の歩みのうしろを神が追いかけてくださる。最後の審判がくだっていないかぎり、あるいはまた、すべての人間が産み終えられないかぎり、真理は未だに汲み尽くされていない。なぜならば、どの人も、どの人生も、どの行いも、どの冒険も、真理の断片だからである。時間的な現実は、永遠の真理を満たすことを少なくとも助けるものである。

真理は未だ汲み尽されておらず、それゆえ真理は完成してもいないという結論には常に我々を狼狽させる要素がある。我々は「生成される真理」(een wordende waarheid)ということについて語らなければならないであろう。

生成される真理は、永遠の真理とは区別されなければならない。プラトンと彼のすべての哲学的な友人はこの問題をあまり重く考えなかった。彼らが考えたことは、真理とはとにかく永遠的なものであるということであり、真理とはそれ自体で存在するものであるということであり、そして真理とは永遠的でありかつ何ものにも妨げられないものであるということであった。そして他方の時間的現実のほうは見せかけ(schijn)にすぎないものであるということ、そしてそれはいちばんよくても永遠の真理と善と美の影(schaduw)にすぎないものであるということであった 。

現代人はこの誘惑に満ちた逃げ道を閉鎖した。二〇世紀には、この世の存在が我々にとって非常に重要なものになり、この世界を「見せかけ」とか「影」などと教えることはなくなった。実を言うと、この世が我々にとって重要な存在であるということは聖書も教えていたことである。この世こそが神の世界(Gods wereld)である。神は、この世界と共に何かをなさろうとしておられる!それゆえ、この世が無価値であるということなどは決してありえない。この世界は何らかの仕方で真理に属しているのである。それゆえ真理とは生成されるものである。

この考え方は、真理に関しては「啓示された真理」(de ge-openbaarde waarheid)だけをひたすら語るというようなやり方を不可能にする。世界の中に、イスラエルとイエス・キリストの中に、聖書と教会の中に、神の啓示がある。そしてこの啓示は我々に真理の一部を与えるものでもある。しかしだからといって我々が「神の啓示は我々にトータルで全体的な真理を与える」とまで語るのは良いことではないと、私は信じている。

たとえば、歴史のプロセスの中でこの啓示された真理と共に生起したこと、人間の心や生活の中に受け取られた地上の諸国民の文化の諸形態、そしてキリスト教の全伝統も神の啓示に属するものである。

それだけではない。神はキリストにあって恵みと啓示と救いと真理を与えるために来てくださった。しかし、この世はいまだに存在している。この世の存在、またこの世の出来事の中にも、真理が隠されている。学問や芸術、あるいは倫理学や哲学、要するに「文化」において、自分の存在と使命と仕事によって、人間がこの真理を明らかにする。

もっとも我々は、一つの視点と他の視点とを取り換えるべきではないだろう。我々としては、啓示された真理に対する服従と信仰をもって、我々にとって益となることをすればよい。それはつまり、聖書的神認識に基づいて価値ある人生を過ごすことである。

永遠の真理も見過ごしにはできないだろう。認識のミステリーも良心のミステリーも、存在には規範(normativiteit)があるということを前提にしている。我々人間は認識や行為の際に真理や善を受けとる。芸術においては美そのものを分け持つ。

しかし我々は、自分自身の現実とすべての時間的な現実とを十分真剣に受けとめなければならない。そのことには何の変わりもない。我々が永遠と啓示において生きておられる神のことを大切に思っているように、神は時間の中に生きている我々のことを(計り知れない御好意によって)大切に思ってくださっている。我々自身とこの世の存在は、真理における少なくとも一つの契機である。それゆえ真理は未だに汲み尽されていない。真理を我々は未だに全く知りえていないと決めつけることもできない。十分な意味で我々は、全く驚くべきことが備えられた将来へと方向づけられている。とりわけ我々は、真理が我々自身によって共に十分に完成することのために存在し、働き、苦しまなければならない。

(『週刊エルセヴィア』1956年1月2日号掲載)

【出典】

Elseviers Weekblad, 2 juni 1956, p. 5.

A. A. van Ruler, Bij Zijn als Kinderen, een boek voor volwassenen, J. H. Kok B. V. Kampen, 1972, p. 16-18.

A. A. van Ruler, Verzameld Werk Deel 1, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, 2007, p. 68-70.