ドグマティックとクリティカルは対立概念か(1955年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

大学で学んだ人々のなにげない日常会話の中でしょっちゅう聞くのは「どんな自明なことであっても独断的(ドグマティック)にとらえるな。どんな前提についても批判的(クリティカル)に検討すべきだ」ということだ。たしかにそれは、大学の学問的訓練にとって非常に重要な意味を持っている。思想のプロセスのあらゆる結び目を自分で見つけて、それをすべて一度は自分で解いてみる必要があることを学ぶためだ。

しかし、高等教育のこの目標がしばしば「独断的(ドグマティック)と批判的(クリティカル)」の区別として語られてしまう。その区別は「人は独断的(ドグマティック)であってはならず、批判的(クリティカル)であるべきだ」という対比を意味せざるをえない。そうなると神学部の教員、とくに教義学者と教義学は当然かちんと来る。「クリティカル」との対比で用いられる「ドグマティック」という語が「教義学」(dogmatische theologie)との関連で用いられる特別な意味からどれほど一人歩きしていようと、人は無意識で「教義学」(dogmatische theologie)を避けがたく、一般的な意味での「独断的」(ドグマティック)なものだろうと思い込んでいる。教義学は「批判的でない」ということは、つまり「学問ではありえないものだ」と思い込んでいる。

しかし、ここに二つの問題があるということをよく考えなくてはならない。第一の問題は、神学の中の教義学以外の学科と教義学との関係をめぐる問いである。聖書学、教会史、宗教史、宗教哲学と教義学の原理的な関係は何か。他の学科は教義学より批判的(クリティカル)ではないのではないか。教義学は他の学科より独断的(ドグマティック)に学者集団と付き合っていないのではないか。教義学は教会または特定の教会の教義(ドグマ)や教理(ドグマータ)という形式で提示される、多くの前提や偏見に基づく諸見解から出発していないのではないか。必ずしも束縛されていないのではないか。むしろ、そういうものから自由になるとき、教義学の地位を高めないだろうか。教義学以外の学科は、現代的な意味でそれほど「批判的」でも「学問的」でもないのではないか。依然として教義学のようなものにとどまっていないだろうか。少なくとも教義学の出発点は教義ではない。これが第一の問題である。

しかし、まだもう一つ問題が残っていることを見落とさないほうがよいだろう。それは、それ自体としての、あるいは一全体としての神学(theologische wetenschap)における一機能としての教会の教義をめぐる問いである。「ドグマティックかクリティカルか」という対比においては、ダイナマイトは教義学の下だけでなく、神学部全体の下にも仕掛けられている。他にもいろんな学部がある中で、独立した神学部が存在する意義は何なのか。少なくともそこで、宗教とは単に人間的な生の現実から出た現象であるだけではなく、真理の価値を含蓄する意義深い現象であるということが前提されている。別の言い方をすれば、宗教において礼拝の対象とされる「神」の存在と認識が前提されている。そのことは、キリスト教的な意味での「神学」を研究する神学部においては言うまでもない。我々が旧約聖書と新約聖書とキリスト教会の歴史に払う関心は(厳密に批判的に評価するならば)非常に大きな教義学的な不均衡がある。そのような場合に、キリスト教会の教義が神学部全体を支える構造規定機能を発揮する。

しかしその場合、もし我々が「ドグマティック」と「クリティカル」の関係を絶対的な対立概念としてとらえてしまうなら、神学(theologische wetenschap)の一学科としての教義学も、神学部全体の中での一機能としてのキリスト教会の教義も、批判的な意味を妨害するものでしかなくなり、学問であることを放棄すると言っているのと変わらない。言い方を換えれば、そのとき我々は「教義学は学問ではありえないし、教義は何の機能も持ちえない」と言っている。

ここで重要な問題は、教義学においても教義においても、学問研究の基本から逸脱しているところに固く立っているように見えるところである。真に学問的であることの正反対である。真の学問たる学問は無前提(voraussetzungslos)なのだ。学問に出発点なし。学問は真理を求めてさまよう。とにかく学問は無前提(Voraussetzungslosigkeit)の理想を可能なかぎり追求すべきである。従って、大学の中に神学部の居場所はないし、神学部の中に教義学の居場所はない。

現代の「学問」(wetenschap)概念はスコラ主義の概念とは異なる。スコラ主義にとって「学問」とは習得した知識の伝統の蓄積を子孫に受け渡すという意味の「学習」(geleerdheid)を指す。現代人にとって「学問」とは経験的に与えられた現実を学び知ることによって真理を明らかにするための、一定の方法に基づく「調査」(onderzoek)を指す。「ドグマティックな思考」とはこの意味でのスコラ主義的なものであり、「クリティカルな思考」とは、それの正反対の意味での現代的なものである。

19世紀の人々はこの問題について激しく争った。最近は静かである。それは一方で哲学が実在する人間を見つめる多少なりとも実証主義的な学問であるという保証を失ったからであり、他方で神学が「学問」の名に値しない高飛車で鼻持ちならない啓示神学的な態度を身につけたからである。しかし我々は、19世紀の問題は解決済みであると考えてはならない。依然として非常に重要な問題である。忘れ去られ、無視されているだけである。しかし、これはリアルできわめて重要な問題である。実存主義哲学にしても啓示神学にしても、人間存在において、また神認識において理性と言葉の意味と役割は何なのかという問いへと遅かれ早かれ必ず戻ってくる。特に我々が文化社会の中で首尾一貫した神学を持つ教会が果たしうる役割を実践的に説明しようとするならば、この問題に肯定的な答えを出さなくてはならない。こういうわけで、この問題を扱うことは神学が健全に営まれるために意味があることなので、キリスト教の信仰と教会は「ドグマティックな思考」と「クリティカルな思考」の関係についてのこの古い問題を解決しなければならないと私は考える。

私はこの問題を「ドグマティックとクリティカルの区別は本当に対立概念として扱うべきなのか」というきわめて批判的(クリティカル)な問いを提起することによって説明させていただく。現代人は両者を対立的にとらえることに何の躊躇もなく出発してしまう。しかし、よく考えてみれば、それこそがきわめて独断的(ドグマティック)な態度でありうるのだ。両者の区別は本当に対立的なのかというこの問いについて、以下、いくつかの点に分けて説明する。

私が第一に指摘したいのは、よく見落とされていることであるが、教会の教義はきわめて限定的なものであるという単純な事実である。教会の教義は断片にすぎない。小さなほころびのような真理が書き残され、まとめられた。キリスト教会は、ある限定的な状況、とりわけ紛争状況に突入することを余儀なくされたとき、議論した問題についていくつかの明確な回答を与えてきた。その回答のいずれにも権威があるので我々キリスト者と神学者たちはそれらに拘束されているということをただちに議論したいと願っている。しかし我々はどの点についても身動きがとれないわけでは全くない。教義はせいぜい、ばらばらの、中心的なことを述べているにすぎない。教会が議論してきたのは、神が三位一体であること、神が世界を創造したこと、キリストの位格の中で神性と人性が結合していること、予定論に立つ教会こそが神の救いのみわざへの人間の参加を語るべきこと、教会とは聖霊論的な存在であること、である。

これらの教義(ドグマ)、あるいはむしろ教理(ドグマータ)の小さなまとまりというべきものと、時代の変遷の中でそれの周囲に置かれてきた、聖書とは何か、奇跡とは何か、人生の意味とは何か、世界とは何かといった問いをめぐる伝統的な考え方の軍勢とは区別すべきであると私は考えている。悪影響を及ぼす可能性があるからである。我々が神学を研究していると、伝統的で自己弁護的で自分好みの考え方しかしない人々から、激しい非難や混ぜっ返しの暴力をもろに受けることがある。だからこそ我々は完全にオープンな位置に立つべきである。我々は、聖書と信仰告白の召しと共に立つべきであって、聖書にも信仰告白にも全く立たないことを弁護することも擁護することもすべきでない。しかしまた我々は、我々の親の家や、我々の教会や、我々のグループの考え方だけに立つべきでもない。

そのため、たとえ我々が何らかの仕方で教義に拘束されているとしても(どうしたら我々が教義に拘束されずにキリスト者や神学者として存在しうるのか)、多く枝分かれした神学の批判的な仕事のための十分な余地が残っている。ドグマティックかクリティカルかを対立的に考えることは、教義が断片的な簡潔性を持っているというこの単純な事実によってすでに差し止められている。

私が提起する第二の論点は「クリティカル(批判的)な思考は無前提から出発しているだろうか」という問いである。すでに述べたとおり、我々西洋社会の中で独立している実際の神学部はいずれにせよいくつかの前提から出発しているし、いわゆる宗教学部でさえ大差はない。しかし、私の問いは神学における批判的思考だけではなく、あらゆる批判的思考にも向けている。それは無前提から出発しているだろうか。

それはたとえば、世界の現実から出発していないだろうか。そしてそこから信仰(geloof)という形をとらずに出発しえているだろうか。この問いで私が特に言いたいことは、もし我々が信仰以外の仕方で、たとえば理性(rede)という形で出発する場合は、世界の現実を合理性と人間の意識の内部の事柄へと解消してしまうことが避けられないだろうということである。信仰という形においてのみ我々は世界を突き放してとらえることができる。よりよく言えば、そのとき我々は世界の現実をそれにふさわしく認識することができる。信仰とは現実に向かってジャンプすることである。

さらに問いうることがある。クリティカルな思考は、自分自身の現実を前提にして出発していないだろうか。我々は実は存在していないという悪霊が見せている悪夢ではないと誰が保証してくれるのか。自己認識こそが、すべての人を支える原事実であり、根本的な信仰的行為なのだ。信仰とは実存に向かってのジャンプでもあるのだ。

問いはまだある。クリティカルな思考は、我々の現実認識に対する(少なくとも究極的には到達可能な)信頼性と、我々の思考の法則や規則の有効性を前提にして出発していないだろうか。そうする以外にどうすれば、これほど奇跡的な認識可能性が理解可能になるのだろうか。

さらに問えば、クリティカルな思考は、あらゆる批判的な仕事の意味を前提にして出発していないだろうか。真理を知ることにはなぜ意味があるのだろうか。意味があるべきだからではないだろうか。すでに費やされた膨大な努力と偉大なる献身のおかげで、全人類は真理を学び知ることによって慰めを得てきたに違いない。しかし、それは現実の有意味性(zinvolheid van de werkelijkheid)として表現されないかぎり、真理の本質と必ずしも合致しない。物事の意味を知ることには意味がなければならないのだろうか。それはどういう意味なのか。意味など本当にあるのだろうか。これらの疑問に答えうるのは、信仰の言葉である。真理を求めるすべてのクリティカルな探究は、ドグマティックな前提にかかっている。それは価値ある前提である。

そして私が何より問いたいのは、考えること、知ること以上に人間存在において大切なことはないのだろうかということである。願うこと、行動すること、存在することは大切ではないのだろうか。いまだかつてそのようなことがクリティカルに完全に正当化されたことがあるだろうか。そういうのをドグマティックというのではないだろうか。そしてクリティカルな思考そのものは、いずれにせよ常に人間存在の複合的な全体性へと統合されていないだろうか。すべての認識は人間としての道徳的な前提を持っていないだろうか。今風の言い方のほうがよければ、こう言おう。ホルモンに支配され、文化的に働き、形而上学的に実存する統合体としての人間は、思考と学問の主体ではないのだろうか。

このあたりで意識的に、さらに一歩先に踏み込んで、個人の問題だけでなく、学問の主体としての共同体の問題について考えてみるとよい。学問は文化の一機能である。文化の担い手は特定の国家である。国家にはそれぞれ固有の前提がある。共通見解(communis opinio)があり、固有の要求や欲求があり、身についた考え方がある。その全体をひっくるめた中で学問が機能するのである。国家社会主義は学問が政治に埋め込まれるあり方を示した。共産主義は国家と社会経済機構の深刻な諸問題とは不可分の関係にあることを主張する。そしてすべての共同体は真・善・美についての何らかの認識の土台の上でのみ成り立ちうる。我々は皆そういうところから出発する。激しい変更が起こることはありうる。その変更に学問が加担することもありうる。しかし、完全な「一からの出直し」(ab ovo)はどの共同体にもありえないし、どの学問にもありえない。結局は、伝統によって制限され、経験に基づいて仕事をする。それは学問の行く末だけでなく、あらゆる前提の行く末も同様である。学問がいまだかつて無前提であったためしはないという単純な理由を持ちだして、それを越えることは今後もありえないだろうと申し上げておく。絶対的な批判は、我々が被っている制限と、とりわけ歴史的な事実ゆえに、容易なことではありえない。

私の第三の論点は、第二点で述べたことからダイレクトに導き出される結論である。他のどの学問とも同じで、一連の神学(theologische wetenschap)もまた日々の仕事のあらゆる実践の場で、極度に重要な諸前提から出発する。しかし、教義学(dogmatiek)がまさにそれである。教義学において神学は、自己の固有な諸前提を持続的に意識し続ける。しかも、意識するだけでは済まない。教義学において神学(theologische wetenschap)は、自己に固有な諸前提が持続可能なものであるかどうかを研究する。どのようにして、という問いは別の問題である。それは教義学の方法論の問題である。今はその問題に立ち入ることはできない。しかし、教義学の意味はそこにある。

そのことゆえに私は、教義学(dogmatiek)こそが神学(theologische wetenschap)全体の中で最も批判的な部門であると考えている。他のどの学科においても神学者は、材料と出典と対象に対して批判的に向き合う。そのために彼は存在する。そしてそのために彼は学問の方法を用いて問題に取り組む。しかし教義学において神学者はとてつもなく大きな一歩を踏み出す。教義学において神学者は、すべてに先立ち、自己自身と、自己の諸前提と、研究対象そのものに対して批判的に向き合う。そこで彼は完全に批判的になる。このことはきわめて重要である。研究者の存在は、自己の研究過程の中で研究対象そのものと同等の構造的な意味を持っているからである。この関連でしばしば笑ってしまうのは、聖書学者や歴史学者が、彼らの学問的な仕事全体の中で、批判的学問的な意味で高度な概念を語る中で、愛らしいほどナイーブに無意識に、彼らが意識することを全く許可していない全く曖昧な、あるいはいくらか曖昧なドグマティックな信仰的確信を前提として出発することに満足しがちであるのを見るときである。これは少なくとも彼らにふさわしくない。彼らの仕事は教義学(dogmatiek)ではないのだ。これでは彼らは十分に学問的でないように見える。彼らは自分自身の信仰的確信を持っている。学問の形をとっていないだけである。

この悪弊は、学問としての神学にとっては無益でしかありえない。信仰と批判的な仕事が相互に反発しあうしかない状態で複雑に組み合わされているだけなので、そこに盲点があり、一種の無人地帯が残り続けることになる。この問題の唯一の解決策は、教義学が神学(theologische wetenschap)の一学科である(他の学科との区別とあらゆる固有の次元とにおいて)という事実が十分認知され、受け容れられることに尽きる。まるで自明のことであるかのように組織神学者(systematici)を歴史学者(historici)に置き換えようとする動きの中で。

言い換えれば、教義学は神学部の中で不可欠な、ひときわ批判的な機能を持っているということである。教義学が神学部の中で持っているこの批判機能は、大学全体の中で哲学が持っている批判機能とほぼ重なりあう。しかし、ここから先は「教義学と哲学の関係」という全く新しい論文を書き起こさなくてはならない。今はその点に触れることはできない。

(続く)

【出典】

A. A. van Ruler, Dogmatisch en kritisch - een tegenstelling?(1955)

A. A. van Ruler, Theologisch werk, dl4, p. 30-39.