聖書学との比較における教義学の方法と可能性(1955年/1968年)部分

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

いずれにせよ今日の神学部に所属する聖書学者は、神学全体のシンフォニーコンサートの中でヴァイオリンを弾く以上、彼自身も神学者である。無理やり他を押し分けて前に出ようとしたり、自分が主役であることを望んだりはしないだろう。なぜなら、彼は主役としてではなく、交響楽団の一奏者として参加しているのだから。我々が問いたいのは、彼はコンサートマスターだろうかということである。そうかもしれない。しかし、どう考えても彼は指揮者ではありえない。

以上の理由から我々が言わざるをえないのは、聖書学から教義学へという順序に固執するのは子どもじみているということである。この問題提起はきわめて実践的な側面を持っている。私が考えているのは神学生たちの訓練と教育のあり方である。これに関して実際に語られることは、神学生はとにかくいちばん最初に文献学的で歴史的・批評的な聖書釈義の訓練を徹底的に受けなければならないというようなことである。その理由として挙げられるのは、「語学」(grammatica)は神学の基本中の基本だからそれを他のどれよりも前に開始することはたとえば教義学にとっても望ましい、というようなことである。しかし、これは事実だろうか。

今の神学生が教義学に特別な期待を抱いているということは普通に考えればありえない。そういう点があるので、現代の聖書学者はかつて流行した冷水恐怖症のようなものを患っている。

しかし、その問題は今は横に置いておこう。重要なことは教育の問題である。どうしたら我々は神学部の学生を最良の方法で教育できるだろうか。とにかく釈義が、そして聖書学それ自体が、彼らの最優先事項だろうか。教会史や教理史を学ぶこと、あるいは哲学史を学ぶことは、将来の神学者にとって重要なことではないだろうか。宗教史や宗教現象学を学ぶことも忘れてはならない!神学者たるもの、教義学と哲学の訓練を徹底的に受けなければならないのではないだろうか。

【出典】
A. A. van Ruler, Theologisch Werk. Deel 1, Uitgeverij G. F. Callenbach N. V., Nijkerk, 1969, p. 46-99.
A. A. van Ruler, Verzameld Werk. Deel 1, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, 2007, p. 199-252.