宣教の神学(1953年)

 A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

最近の何十年かの間に、教会の本質と役割を「新しい宣教構想」の視点から見直そうとする動きがある。この動きにはいくつかの出発点がある。

第一は、世界宣教である。19世紀と20世紀は、教会史において前例がない大規模で徹底的な世界宣教が行われた時代である。そうであったということを我々は最近になってようやく自覚するようになった。

第二は、教会の社会活動についての問題提起である。この点を語るときの私は欧米の教会の教勢がどうなっているかを引き合いに出すつもりはない。わざとらしいし、心理学や神学の立場からしても耐えられない。しかし、教会は1900年間の眠りから覚め、現代社会の中で教会が果たしうる役割は乏しいと自覚している。その一方で現代社会は実存(とくに共生的実存)の深層に踏み込みつつある。生が狂気に至るとき、それを鎮静するためにキリスト教がいかなる役割を果たしうるかというような問題意識を今日の教会は無意識で抱いている。

第三は、イスラエル問題である。ユダヤ人の迫害からはじまり、旧約聖書の意義の見直し、イスラエル建国、そして世界文化におけるユダヤ人のまさに全世界的な貢献に至るまで。これらのことが我々に新しい問題を突き付けた。ユダヤ人たちの姿は、イエス・キリストの教会にとっては鏡のようである。彼らを見るたびに、我々は、世界の中で教会がイエス・キリストの弟子として存在し、宣教の使命を果たす意味は何なのかを改めて考えさせられる。

第四は、エキュメニカル運動である。この運動は教会と職制の問題に(過度なほどに)関心をもっている。そのため、何世紀も前から議論されてきた教会の「宣教」をめぐる議論が、目前に迫る教会政治上の緊急課題として再燃した。

いま挙げた四つ、すなわち世界宣教、現代の社会情勢、イスラエル人問題、エキュメニカル運動は、教会の本質と役割を「宣教」の視点から新たに見なおそうとする動きの最も重要な出発点である。

ここで我々の前に立ちはだかるのは、この新しい「宣教構想」が我々の神学体系のどこに位置づけられるかという問題である。この問題を「宣教の神学」というテーマで考える必要があると思った次第である。

そこで我々がしなければならないのは、ひとまず神学の伝統的な立場に立ちつつ、「宣教」の視点をどのように解釈し、評価するか、そしてもし批判を受けた場合どのように答弁するかをよく考えることである。

しかし、それだけでなく、我々がもうひとつしなければならないことがある。我々はこの新しい「宣教構想」を従来の伝統的な神学体系のどの位置かに押しこんで済ませるわけにいかない。我々は「宣教」の視点を、神学体系の全部門に影響を及ぼし、神学全体の構成を規定するほどのものにしなくてはならない。「宣教の神学」を考えることは「宣教する神学」へと駆り立てられる可能性をはらんでいる。

現時点で重要なことは、我々の理想とする「宣教の神学」が注文どおり書き下ろされるのを期待することではない。上述のとおり、新しい「宣教構想」には四つの出発点がある。この四つの出発点は非常に異なるものであり、対立的な関係ですらある。加えて、この新しい「宣教構想」をめぐる議論そのものが現在進行中であり、かつ始まったばかりである。かたや、神学体系は我々にとって非常に重要である。位置関係を少しでも変えようものなら全体が崩れてしまう。たとえば、ひとつの神学体系の中で従来「教会論」を扱ってきたところを「終末論」や「宣教論」や「聖霊論」などに変えたら、神学体系は激しい地崩れを起こし、その災禍は「キリスト論」にも及ぶだろう。

しかし、そうは言っても私は、教会の「宣教構想」の問題を扱う学科を内包する神学体系がどのようなものかを考えるのを避けるわけにいかない。そのような神学体系を描くのは気が早すぎるかもしれないが、だれかがしなくてはならない。一つ一つの部品から全体は組み立てられる。しかし、全体像がどのようなものかを予想するために、時どき全体像のほうを先に見ておくことも悪くないだろう。
 
ついでに書いておく。私が本書に記したのは、オランダ国内の議論の中で際立ったものと見られているいくつかの私見である。ひとつの点さえ、他の人たちとの完全な意味での神学的合意を得られていないものばかりである。

「宣教は教会の機能になった」
「オランダ改革派教会の教会規程は教会の宣教的特質を明確化した」
「ヘンドリク・クレーマーの努力は報われた」
「あのホーケンダイク教授が(なんとびっくり)オランダ改革派教会担当教授である」

これらはすべて事実である。しかし、これら一つ一つの事実をどのように解釈すべきかについては、よく考え抜かれ、議論されるべきだろう。

序の最後に書いておきたいことがある。本書には私が過去に述べた私見が散りばめられている。多くの視点に触れなくてならなかった。そのたびに新しい問いと思想の世界が開けていくのだ!

重要な問題についてさえ、ほんの少し触れるだけにとどまらざるをえなかった。

第一章 「終末論」の視点  神の国と世界

最初に取り上げることを願うのは「終末論」の視点である。教会の存在と役割を宣教論の立場から考えていくと次第に分かってくるのは、終末論には非常に大きな意義があるということである。その意義たるや「終末論から書きはじめる組織神学」を考えねばならないと思うほどである。終末論の強調は現代の聖書学の動向とも合致する。「世界の終わり」を大げさに扱うことに一般的な社会不安に迎合する面が全くないわけではない。しかし、あくまで宣教論は宣教の主体である教会の立場から考え出される。教会が教える「終末」の意味は破滅ではない。宣教の主体としての教会が「目標」や「目的」をめざして歩む勇気や喜びを表現するのが終末論である。終末論の強調は組織神学をそのような神学へと全面的に書き直すことを求めていると私は考える。

第二章 「予定論」の視点  予定論の急所

第三章 「聖霊論」の視点  聖霊の働き

第四章 「人間論」の視点  教会の外なる異教社会で生きていくこと


第五章 「教会論」の視点  教会の制度形態

第六章 「歴史哲学」の視点

A. A. van Ruler. Theologie van het Apostolaat.
A. A. van Ruler, Verwachting en voltooiing.
A. A. van Ruler, Verzameld Werk.