国立大学神学部の背景と諸問題(1951年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

国立大学の神学部は十九世紀の嵐の後も生き延びた。国立大学の神学部は神の啓示と学問的真理との関係が閉ざされることはありえないことのしるしとして立ち続けている。理性は人間存在全体の中で重要な役割を果たしている。国立大学の神学部が将来どのように発展していくのかを予言することまでは控えよう。

三つの前提

(公立の)大学に神学部があることを見聞きする人々がいだく前提は、少なくとも次の三点にまとめることができる。第一の前提は、神学とは学問として営まれるものであるということである。大学は教育なり研究なりといった形で営まれる学問の研修機関である。教会は教会役員候補者として選ばれた人々を対象に、彼らが教会役員になったときに必要となる神学の理論や実践を教えてきた。しかし、その神学が大学教育の中に組み込まれた途端、教会が信徒向けに教えてきた内容を超えるものになる。神学は教会から大学へと持ち運ばれ、大学がそれを営むことを求められた。教会は神学について、ある程度は語ることができる。しかし、神学の本拠地は大学に移された。教会には信仰生活と愛の交わりがある。そのことに一切がかかっている。しかし、神学は学問である。

この第一の前提と第二の前提は直接的な関係にある。第二の前提とは、学問としての神学は歴史学や心理学などを用いて取り組む宗教現象学以上のものであることを求めている、ということである。十九世紀の人々は神学を宗教学へと退却させた。しかし、それは明らかに最後の手段であった。神と真理問題はどのみち我々の視野の外に置くわけにはいかない。とはいえ、その問題を扱うことは神学以外の学問には不可能である。しかし、人間的な現象としてであれ宗教が研究されることになれば、神と真理問題を扱うことは可能であると十分感じることができる。神学と啓示とが不可分の関係にあるということに同意し、神学はとにかく学問として扱うことができるものであると主張する人々は、理性と啓示は何らかの仕方で総合しうるものであるという第二の前提に立っている。しかし、その総合のありかたはローマ・カトリック教会の場合とプロテスタント教会の場合とで全く異なるものに見えるだろう。そして、現代に生きている我々はこのような総合自体をはじめから断念してしまうことが多い。しかし、この総合はどの神学部も必ず受け継いでいる前提である。私は古代の思想よりも現代の精神世界の発展を取り上げたいと願っている。一方に、理性は考慮の対象外に置くべきではないが、絶対化すべきでもないという考え方がある。その場合は理性とは人間存在全体において重要な役割を果たす一機能であるとみなされている。また他方、聖書の教えとは世界の外側から神的権威をもたらすものというよりも、神の決意の証明書であるという考え方がある。

しかし、このような総合は水に落ちる石のようなものである。波紋はどんどん広がって行く。まさにこれが第三の前提である。第三の前提とは、大学という枠組みにおいて営まれる学問としての神学は、その時代やその社会が多少なりともキリスト教化されている一般的・文化的意識の中でのみ取り組みうるものであるということである。大学は孤島ではなく、文化全体における一部分である。大学には工学、法学、教育学、医学・看護学、芸術学などの学部がある。教会生活に関係しているものもあるし、社会や経済に関係しているものもある。その中では神学だけが啓示と真理を研究する学問である。しかし、そのようなことを言えるのは、人間生活全体が個人的にも社会的にも多少なりとも「聖なる社会」(G.ファン・デア・レーウ)に属し、「御言葉の教会」としての教会に属し、「社会の体」(Th.L.ハイチェマ)としての魂に属している場合だけである。

(続く)

【出典】

A. A. van Ruler, Verzameld Werk.