イエスのまなざしとペトロの後悔(1947年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

ルカによる福音書22・61~62

「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして、外に出て、激しく泣いた。」

この個所からわたしたちが受けとる思いは、次のことです。

第一は、イエスは苦しみの中で弟子たちを忘れない、ということです。

ペトロがイエスを否認したとき、イエスはすでに苦しみの只中に立っていました。(ルカが語るように)見張りの番兵たちに侮辱され、なぐられたときも、(他の福音書記者が語るように)大祭司と最高法院の前で不愉快な尋問を浴びせられたときも、イエスは苦しみました。

しかしイエスは、自分の苦しみがどれほど屈辱的であり、苦々しいものであっても、苦しみに完全に支配されてしまうことはありませんでした。イエスは弟子たちのことを考え続けました。そして、苦しみの只中で、振り向いてペトロを見つめられました。

ここで明らかなことは、イエスの苦しみはまことの救い主の苦しみであったということです。苦しむ人は誰でも、孤立しているときは、自分のことばかり繰り返し考えてしまうものです。イエスはそうではありませんでした。おそらくイエスは、ただ見捨てられただけです。弟子たち全員の結末はどうであったかを考えてみてください!そして、ペトロがイエスを知らないと言ったときのことを考えてみてください。

しかし、イエスは、この孤独の中で弟子たちのことをお忘れになりませんでした。イエスは心の中で彼らを担っておられました。そのまなざしの中で彼らをとらえておられました。イエスはひたすらお苦しみになったのです。しかし、イエスはペトロの前で苦しみました。ペトロのために苦しみました。だからこそ、イエスは振り向いてペトロのことを思い、ペトロを見つめられたのです。

第二は、イエスはご自分を否認する弟子たちをお見捨てにならない、ということです。

ペトロはイエスなど知らないと否認しました。その理由については今は考えないでおきます。ペトロは誓いと呪いをもって三度激しく言葉を重ねました。

今やわたしたちは言うでしょう。わたしは、人々の前で、天にいますわが御父の御前で、否認されるでしょう、と。

しかし、イエスの身振りの中にあるゆるしを見てください。イエスは、ペトロをあきらめておられません。ペトロはイエスを見捨てたにもかかわらず、イエスはペトロをお見捨てになりませんでした。イエスはペトロを固くとらえてくださったのです。 交わりを回復してくださったのです。

それはイエスの恩恵から逃げることではありません。おそらくそこには、いくぶん息苦しいものがあります。イエスは今やわたしをお見捨てになっているのだ。わたしは二度とイエスにお目にかかれないのだ、と感じます。ところが、イエスは、ご自身の愛と交わりとをもって、わたしの後を追いかけてくださるのです。

しかし、より深く見るなら、そこにあるのは、途方もない慰めでもあります。その慰めは、わたしがこの方をいつも見捨てており、わたしが徹底的に堕落しているにもかかわらず、この方はわたしを再び見出してくださり、再び連れ戻してくださり、堕落のどん底にいるわたしをも固くとらえてくださるのだ、というものです。

しかし、第三に学ぶべきことがあります。それは、彼は罪人であると見られるとき、それがすべての終わりではないということです。

むしろ、はじまりです。イエスは弟子たちに後悔の念をもたらしました。イエスのまなざしが弟子たちの罪の認識という点を見逃していたわけではありません。まさにイエスがペトロに言われたことは、彼が後悔するであろうということでした。ハイデルベルク信仰問答の表現で語るならば、ペトロは「惨めさの認識」に至らなければなりません。

しかし、それは、信仰の事柄においては、あまり重要なことではありません。回心とは、それによってわたしたちが御国の中をすべり抜けていくジェットコースターではありません。そこで必要なことは、彼のつぐないと後悔です。それは、イエスがわたしたちに与えてくださるものです。わたしたちによって、イエスの恩恵の中で見出されるものです。そこでイエスは、温厚な方ではありません。

この話を、ヨハネによる福音書21章から考えてみてください。そこでイエスは、ペトロがわっと泣き出すまで三度も、「あなたはわたしを愛するか」と問われています。しかしこれは、彼のすべての苦しみにおいては、大きな慰めとなる真理でもあります。

罪はこすり落とされなければなりません。心は清められなければなりません。このつぐないと回心のないところで、罪のゆるしは真空であり、わたしたちの心の内なる空虚以上の何ものでもありません。恩恵は、回心においても先行するのです。わたしたちは、最初にゆるしを受けとるのであって、わたしたちの側で何一つ付け加えるものはありません。

しかし、ゆるしは、わたしたちのために、まさにわたしたちが自分の惨めさを認識することにおいて、その内容と形態を獲得するのです。

第四の思いは、こうです。イエスは、わたしたちがイエスの言葉を心に留めようとすることによってわたしたちに後悔の念をもたらしてくださる、ということです。

ペトロの場合、イエスのまなざしが、そのように働きました。そのように、聖霊がわたしたちの心の中で働いてくださるのです。聖霊は、わたしたちの心への恩恵の適用において、わたしたちを全く警告的で勧告的な神の言としてくださいます。聖霊は、わたしたちが神の律法を心に留めるようにしてくださり、そこからわたしたちが罪のゆるしを受けとり、わたしたちがいかに惨めな者であるかを学び知るようにしてくださるのです。

わたしたちは、ただ、要求の光の中で、わたしたちの人生が神の正義から堕落していることを暴露するだけです。しかし、その光の中で見るためには、聖霊が必要です。そして聖霊は、不思議で美しい仕方で、福音の喜びと律法の戒めとを不断に結び合わせるのです。

最後に、テキストの結語部分が残っています。ペトロは外に出て、激しく泣きました。これは後悔です。わたしたちはここで、必要条件としてではなく、恩恵の結果として真の後悔が描き出されていることに注目したいと思います。

最初に後悔ではなく、最初に罪の告白、次にゆるしを語る。このような語り方は非常にまじめくさったやり方であり、危険極まりない福音の人間化です。

しかし、ここに描き出されているのは、イエスが振り向いてペトロをご覧になった、まさにそこから後悔が生じるという恩恵です。それは、常にそのとおりです。愛と恩恵をもっておられる神は、常に最初であられる方です。神はわたしたちを、ゆるしと憐れみの土台の上に置いてくださいます(だからこそ、幼児洗礼です!)。そして、わたしたちは、その土台を通して、その土台の上で自分自身を見つめます。そして、それがわたしたちに後悔を呼び起こすのです。

後悔が呼び起こされるとき、解放(救出)も呼び起こされます。真の後悔は罪人の交わりからの解放です。ペトロは、罪の奴隷となってたき火の脇に連座することをやめました。真の後悔は罪の力からの解放でもあります。まさにペトロは、不断の否認をもって罪を犯すことをやめました。真の後悔は罪責の恐怖からの解放でもあります。

後悔がひとをより深いところに引き込んでいるうちに、罪責の恐怖がペトロを離れていきました。後悔は自分の罪について考えるためだけにあるのではなく(もっとも、人間の無力さに対する苦情は、聖霊からではなく、ひたすら悪魔から出てくるものですが)、とりわけ彼を知り、彼を信じるためです。

後悔が安心をもたらすのです。後悔とは常に苦渋に満ちた体験です。ペトロは激しく泣きました。しかし、後悔とは常に甘美にあふれる体験でもあります。なぜなら、それは何よりも、わたしたちの心の中にゆるしと解放が与えられた結果だからです。

【出典】A. A. van Ruler, Sta op tot de vreugde, Nijkerk, 1947.